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講話

9月6日 朝礼

 おはようございます。
 緊急事態宣言が発令中なので、今朝もリモートで全校朝礼をします。

 昨日、東京パラリンピックが閉幕しましたが、大会期間中、障がいのある多くの人の姿をテレビで見ました。私たちは普段、障がいのある方に対して、その人は何ができないのだろうかということをまず考えることが多いかもしれません。もちろん、何かお手伝いをするためにはそれも必要なことです。だけど今回、色々な競技で活躍している選手を見ていると、どうしてこんなことができるのだろうかと感動する場面が、たくさんありました。何ができないかではなく、できることをとことん追求して徹底的に鍛えている姿に、私自身も、もう少し頑張りなさいと励まされているように感じました。国際パラリンピック委員会のパーソンズ会長は、開会式の挨拶で「違いは強みであって、弱さではない」と語りました。この言葉を自分のこととして受け取らなければならない。パラリンピックを見て、そんなことを考えさせられました。

 さて、廊下には「喜ぶ人と共に喜びなさい」という新約聖書にある言葉を掲げてもらっています。これは、パウロがローマの教会の信徒たちへ書いた手紙の中に出てくる言葉です。本当は「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」という言葉ですが、長いのでその前半だけを掲げてもらいました。
 当時のローマは世界の中心で、教会にはたくさんの、そして多様な信徒が集まっていたと思われます。ローマ市民もいたし、ユダヤ人もいました。社会的な地位の高い人もそうでない人もいたし、裕福な人も貧しい人もいたでしょう。そういった色々な立場の信徒たちが、同じ教会のメンバーとしてともに信仰の道を歩むためには、組織や制度をきちんと整えることよりも、まずは互いの心がしっかりと繋がらなければならないとパウロは考えていました。その思いを「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」という言葉で表しました。お互いに、喜びや悲しみ、痛みに共感できる間柄になりなさいという呼びかけです。

 これは、言葉としてはシンプルで分かりやすいけれど、実践するのはそんなに簡単ではないと思います。私たちは、特に身近な人が自分より幸せそうにしていると、嫉妬して、その人の幸福を素直には認めたくないという気持ちになるかもしれません。また他人の不幸に対しても、同情する気持ちはあっても、自分はそうならなくて良かったという優越感のようなものがどこかにあるかもしれません。このように相手と自分を比較し、嫉妬心や優越感が心を占めているときは、喜ぶ人とともに喜び、泣く人とともに泣くことはできません。
 だけど、もし自分が喜んでいるときに、同じように喜んでくれる人がいたら、また、自分が泣いているときに、我がことのように泣いてくれる人がいたら、その喜びや悲しみは、かなり違ったものになるでしょう。そしてよく振り返れば、そういう人がそばにいてくれた体験が、私たちにもあるのではないでしょうか。パウロはこのように、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣くような関係が、人間同士の本来あるべき幸福な姿だと教えています。確かにその通りだと私は思います。
 私たちも、身近にいる多様な人との間で、あまり自分と相手を比較はせずに、素直な気持ちで「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」という関係を保ちたいものです。この言葉を、努力目標としてしっかりと自分の心の中に留めておきたいと思います。
 今朝の話は以上です。