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講話

6月8日 朝礼

おはようございます。
 今週から廊下には「magis」(マジス)という言葉を掲示していますが、その話をする前に、今日もまた挨拶について、少しだけ話します。

 先日、用事があって、放課後英語の伊藤先生と一緒にある高校に行ったところ、すれ違う生徒がみんな「こんにちは」と言って、さわやかに挨拶をしてくれました。本当に例外なくすれ違う生徒みんなだったので、伊藤先生と2人で、ずっと感心していました。そういう学校が他にもたくさんあるのかどうか私はよく知りませんが、とにかく来客には挨拶をするというマナーが自然な形でできていて、素晴らしい学校だと思いました。
 本校にもお客さんにきちんと挨拶のできる生徒はいますが、残念ながらかなり少ない。みんなはこの学校で生活をしているわけだから、全く知らない人であっても、学校に来られた方にはきちんと挨拶をしてもらいたい。いいでしょうか。心掛けてください。

 さて「マジス」ですが、最近「マジス」についていくつか原稿を書くことがあったので、同じようなことをみんなにも話しておこうと思って、この言葉を廊下に掲げてもらいました。ちょうど1年前の朝礼でもマジスについて話をしたので、またかと思う人もいるでしょうが、大事な言葉なので、機会のあるごとに話をしておきたいと思います。

 マジスは、もともとイエズス会の創立者であるイグナチオが、繰り返し強調して使った言葉だそうです。イグナチオは、「神のために、そして他者のために、より一層仕える」ということを、自分自身に対しても仲間に対しても強く求めた、その「より一層」というのがマジスです。そして、イグナチオに倣って、世界中のイエズス会学校でも、教育を実現するために「マジス」という言葉をずっと大切にしてきました。
 学校で「より一層」というと、知的能力をより一層伸ばすとか、学問的により一層優れたものを目指すといった意味に理解されるかもしれません。もちろん、それも学校としては大切なことですが、イエズス会学校が言う「マジス」は、それも含めて、「現状に満足せず、より一層善いものを目指す」という意味です。人と比べて優れているかどうか、何かの基準を超えかどうか、そんなこととは関係なく、他者との比較に惑わされず、自分に与えられた能力を可能な限り伸ばそうという心意気を表す言葉です。だから、マジスには「もうこれで十分だ」という終わりはありません。より一層の成長を目指してどこまでもダイナミックに前進する心の態度のことです。

 みんなのような若い年代は、その気になれば、何でも柔軟に吸収し、素直に感じ取り、自由に想像力を働かせることで、頭も心も大きく成長する、そういう力を持っています。もちろんその成長の過程には、多くの困難があり、失敗や挫折があります。そういう場面でいつも逃げていては、成長はありません。せいぜい今のレベルに留まるだけです。辛いとか、行き詰ったというときは、一息入れてゆっくり休めばいい。だけどいつかは、それを乗り越えていかないといけない。その乗り越えようという気力を与えてくれるのが、「もっと成長したい」というマジスの精神です。

 この「もっと成長したい」という気持ちは、自分の弱さや足りなさを、正直に認めて受け入れることから始まると、私は思います。前回の朝礼の「謙遜」の話でも出てきましたが、傲慢にならず、卑屈にもならず、あるがままに正しく自分を認めるということです。傲慢とか卑屈は、「もっと成長したい」というマジスとは、どうしても結び付きません。自分の弱さや足りなさを正しく認めて受け入れることで、自分の進むべき方向も見えてくるだろうし、自分の中にマジスが育つのだと思います。

 しばらくこの言葉を掲示しておきますので、みんなそれぞれに、自分の中にマジスが育ってきているか、「より一層成長したい」という気持ちがどの程度あるか、よく振り返ってもらいたいと思います。