コンテンツにスキップ

講話

11月29日 朝礼

 おはようございます。
 今朝はまず、奉仕委員から話があります。
  ・・・・・・・・・・

 さて、今週の金曜日、12月3日は、フランシスコ・ザビエルが中国のサンチャン島で亡くなった命日に当たり、広島学院はこの日を創立記念日と定めています。例年この時期に機会があれば話していることですが、ザビエルの記念日に本校の創立を祝う意味について、今年も少し振り返っておきたいと思います。

 ザビエルは、1549年8月に鹿児島に上陸し、それから2年3か月の間、日本で宣教活動に励みました。京の都を拠点にしてキリスト教を全国に広めるという願いは、叶いませんでしたが、鹿児島や長崎、山口、大分など各地でたくさんの福音の種を蒔きました。ザビエルは、多くの日本人と接して、日本人は理性的で克己心が強く、知識欲に富んでいるという印象を強く受け、そんな志ある若者の可能性を伸ばすための学校を日本に建てる夢を、抱くようになりました。
 ザビエルは日本を離れて1年後に亡くなりましたが、その遺志を受け継いだイエズス会司祭のヴァリニャーノらによって、およそ30年後に安土と有馬にセミナリヨが、府内にコレジオが建てられました。そこでは、哲学や神学、ラテン語など司祭になるために必要な授業だけでなく、自然科学や日本の古典、さらに音楽や美術、体育などの授業もあり、日本の文化を大切にしながら、当時のヨーロッパの学校に匹敵するレベルの高い教育が行われました。これが日本のイエズス会学校の始まりです。
 因みに、天正遣欧少年使節団の伊藤マンショら4人は有馬のセミナリヨの1期生です。「4人は、13、4歳の幼さの残る少年だったが、ラテン語を話し、オルガンや弦楽器を演奏し、哲学を論じ合った」とある資料には書かれています。
 これらの学校は、キリスト教弾圧により30年あまりで途絶えましたが、それからおよそ300年経って、東京に上智大学が設立され、日本のイエズス会学校は再開しました。さらに約40年後、イエズス会は、原爆からの復興が進む広島に学校を建てることを決め、アルペ神父やシュワイツェル神父など多くのイエズス会員の尽力とカリフォルニアなどのカトリック教会からの支援があり、1956年、広島学院が創立されました。

 「生活のしおり」にもあるように、広島学院は創立以来、カトリックの人間観・世界観に基づいて、他者のために生きることを喜びとする人間の育成を教育目標に掲げています。そのために広島学院の生徒は、優れた人格の形成を目指すとともに、与えられた豊かな才能を最大限に伸ばすよう努めなければならない。そして、学校でのあらゆる活動を通して、真理と正義と平和について深く学び、それらを強く願い求める円満な人間へと育つことが期待されています。

 ザビエルはまさにそういう人だったと思います。優れた教養を身につけていましたが、自分の利益は求めず、福音宣教と、貧しい人々、虐げられた人々への奉仕の日々を送りました。何に対してもその奥にある真実に目を注ぎ、本当に価値のあることを選んで生きた人でした。そのザビエルの夢を受け継いで建てられたセミナリヨやコレジオでは、イエズス会が設立当時から掲げていた「マジスの精神」が大切にされ、倫理面でも知的学力の面でも、より高いものを目指す教育がなされました。この校風は、400年経った今の日本のイエズス会学校でも変わりません。

 広島学院は、そのようなザビエルの夢と、セミナリオやコレジオの伝統を引き継いでいる学校であるということを、創立記念日に当たり、あらためて心に留めておきたいと思います。