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講話

6月28日 朝礼

 おはようございます。
 期末試験まであと1週間となりました。ある心理学者によると、人間は何の工夫もなく覚えた情報は、脳の中で「短期記憶」として扱われ、1時間後に56%、1日後には76%を忘れてしまうそうです。「長期記憶」として留めるためには、実際に声を出して読んだり何度も書いたりということを繰り返して、1つ1つ覚えるしかありません。ICT化が進み何かと便利な時代になっても、これは変わりません。さらにその記憶を脳に定着させるためには、良質な睡眠が必要ですが、液晶画面から出るブルーライトはその大きな妨げになることが分かっています。ということで、パソコンやタブレット等の使用は必要最小限に抑え、紙と鉛筆で頑張ってもらいたいと思います。

 さて、廊下には5月の連休後からずっと「敬虔」という言葉を掲示したまま、1学期最後の全校朝礼になってしまいました。もう少しだけ「敬虔」について話をしておきます。
 中1のILの授業で紹介した学年もありますが、姉妹校の六甲学院の校舎の前には大きな岩が置いてあって、そこに次のような言葉が刻まれています。

    すべてのものは
    過ぎさり そして
    消えて行く その
    すぎ去り消えさって行くものの
    奥に在る
    永遠なるもののことを
    静かに考えよう

 これは六甲の初代校長が生徒に語った言葉です。「宇宙万物の始まりからずっと流れ続けている時間には、いつか終わるときがくる。その始まりと終わりのある時間の奥にある、時間を超越した永遠なるもののことを、静かに考えよう」ということでしょうか。永遠なるものや人間を超えた大いなる存在について、一度ゆっくりと考えてみなさいということではありません。時々、そういったもののことを考える時間を持ちましょうということで、広島学院の初代校長が生徒に「敬虔」を宝とするように教えたのと同じことだと私は思います。そうすれば、自分自身について、また周囲や世界についての見方、考え方が、それまでとは違ったものになるかもしれない。より善いもの(マジス)が見えてくるのではないかと私は思います。
 「静かに考えよう」というのは、ただボーっと考えるのとは随分違います。できるだけ雑念を払い、心を静かにして深く考える中で、心に聞こえてくる声に素直に耳を傾けようということです。こういう沈黙の中で、本当に大事なことは聞こえてくるものだし、謙虚な気持ちで自分自身のあるべき姿について考えることができるものです。日頃、体も心も喧騒の中に置かれていることの多い私たちは、時にこういった沈黙のうちに静かに考える時間を、意識して作らないといけない。大事なことです。

 「沈黙の時間」ということでいえば、日々行っている「瞑黙」も、沈黙の時間です。これも六甲学院の話になりますが、六甲の初代校長は、学校生活を整然と規律あるものにするためには、静かな時間を作ることが必要だと考え、創立当初から、学校生活の節目に瞑黙をして、沈黙の時間を作ったのだそうです。学校生活を整然と規律あるものにするための沈黙です。それに倣って、栄光学園も広島学院も、創立当初からずっと瞑黙を大切にしています。
 瞑黙は、活動の初めや終わりに「いい時間を過ごすことができますように」とか「いい時間を与えてもらいました」といった気持ちで、これからの時間をきちんと過ごす準備をしたり、今まで過ごした時間を振り返ったりする時間です。
 瞑黙は、ただ黙って、目を閉じていればいいというものではありません。座禅と同じように、きちんとした姿勢が必要です。心と体を整えるということです。目を閉じ、顎を引き、背筋をピンと伸ばして動かない。そういう美しい形の瞑黙を心掛けてもらいたい。
 短い沈黙の時間なので、「静かに考えよう」ということとは違いますが、この瞑黙もまた、学院の敬虔の宝を実践するものだと私は思います。意味のある沈黙の時間として、日々の瞑黙を大切にしてください。