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講話

1学期終業式

 今日で1学期は終わります。
 大雨のため予定より2日遅れたものの、昨年と違って、授業やクラブ活動はほぼ平常通りできました。ただ、夏休みの中1、中2のキャンプや、高1のフィリピン研修、東京研修は、今年も中止です。また今日保護者にもお伝えしますが、2学期の体育祭も昨年同様、無観客で午前中のみの開催とします。このように、学校行事はまだまだ例年通りにはできず、残念に思う生徒もたくさんいるでしょうが、仕方がありません。できることをできる範囲でしっかりとやっていきましょう。

 さて、今日発行されたカトリック研究会の「希望」にも紹介されている通り、イエズス会は今年の5月20日から来年の7月31日までを「イグナチオ年」と定めています。このことについて少し話をします。
 先日配布した「翠江会便り」にも書きましたが、イエズス会の創立者であるイグナチオは、若い頃は名誉を求めて各地を転戦する勇敢な兵士でした。しかし今からちょうど500年前、30歳の時に、戦闘で両足に重傷を負いました。また戦場に戻りたいという一心で、激しい苦痛を伴う治療に驚異的な精神力で耐えて、やがて傷が回復し始めると、退屈凌ぎに「騎士物語」のような書物を読みたいと所望しました。だけどそこには「キリスト伝」と「聖人伝」しかなく、他にすることもないのでそれらを繰り返し読むうちに、聖人たちのようにイエス・キリストに仕える生活を送りたいという思いが芽生え、その思いは徐々に大きくなっていきました。そして1年間の療養生活を終えたイグナチオは、それまでの世俗的な虚栄を求める生き方と決別し、イエスの教えに従って生きる道を歩み始めました。

 このように、心のありようを根本的に変えて、神に心を向けた生き方に方向転換することを、回心といいます。宗教的な意味には拘らず、新しい価値観との出会いによってより善い生き方に方向転換することと考えてもいいでしょう。このイグナチオの回心から500年になることを記念して、イエズス会はこの1年余りを「イグナチオ年」と定め、イグナチオの回心を思い出して、私たち自身の生活をより善いものへと刷新していくように求めています。

 イグナチオは療養中、ベッドに横たわりながら、何度も騎士として勇敢に戦う自分の姿を想像しました。それはとても楽しい時間で、特に高貴な婦人から称えられる場面は、夢中になって何時間も想像を膨らましていました。そのうちに飽きてくると、今度は聖人伝にある聖人のように生きる自分を想像してみました。今までそのような自分を想像したことはなかったけど、そういう生き方もいいものだと感じました。だけどこれも飽きてきて、また騎士として活躍する自分を想像する、そんなことを何日も何日も繰り返しているうちに、微妙な心の動きに気付き始めました。それは、勇敢な騎士としてみんなから称えられる自分を想像している間は、大きな喜びや楽しみを感じるが、後には虚しさや寂しさが残るということ、一方聖人のように生きる自分を想像している間は慰めを覚え、後にも満足感や喜びが残るということです。イグナチオは、この心の中の違った動きを何度も確かめ、自分にとってより善い生き方を見つけました。

 このイグナチオの回心から私たちが学ぶべき点の1つは、イグナチオはそれまでずっと世俗的な名誉を求めることに気持ちは偏っていたが、その偏りを一旦捨てて、全く違う道を生きる自分を想像してみたということ。そしてもう1点は、そのときの心の動きの違いを深く感じ取ったことです。

 私たちは、何か重大な決断を下すときに「こうでなければならない」とか「これしかない」といった、無意識のうちに自分が持っている拘りや偏りに縛られていることがあるものです。その拘りや偏りにとらわれず、イグナチオのように、別の可能性も考えてみる心の自由を保ちたい。そして、そのときに喜びや慰めを感じるのか、或いは虚しさや寂しさを感じるのか、その心の動きの違いに気がつけば、いい決断ができるかもしれません。イグナチオ年に当たり、イグナチオの回心を学び、私たちも何かを決断したり振り返ったりするときに役立てることができればと思います。

 明日からの夏休みが、40日後にただ何となく過ぎてしまったということの無いようにしてもらいたい。コロナ禍ではあっても、やらなければならないことや、やったらよいことは、たくさんあるはずです。いい夏休みにしてください。