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講話

5月12日 朝礼

おはようございます。
 今朝はあまり天気が良くありませんが、昨日、一昨日は、素晴らしい天気でした。5月は、天気の良い日は、真っ青な五月晴れに、明るく輝く木々の緑、色鮮やかに咲く花々など、自然の美しさが身近に感じられる季節です。この美しくて穏やかな5月を、カトリック教会は「聖母月」と定めて、イエス・キリストの母マリアを称えて賛美します。学院では、この5月には、毎朝祈りの集いを行っています。今年は工事の関係で合併室で行われていますが、聖堂と雰囲気は少し違っていても中身は今までと変わりはありません。毎朝いい話がありますので、みんなもぜひ聞きに来てください。

 さて、先週から廊下には、学院の4つの宝の1つである「敬虔」という言葉を掲示してもらっています。「敬虔」とは、一般には「敬いつつしむこと。特に、神や仏を敬い、つつしんで仕えること」という意味で、「敬虔なクリスチャン」とか「敬虔な祈りを捧げる」などと言うように、宗教的な意味合いの言葉として使うことが多いかもしれません。ですが、あまり宗教とは結びつけて考えず、「神や仏」の代わりに、例えば「人の力の及ばない人間を超える存在」と言い換えて考えてもいいでしょう。
 
 先ほども言ったこの5月の美しい自然に、私は、命の躍動感、命の輝きや喜びといったものを感じます。そして、そこには確かに「人の力の及ばない人間を超えた存在」を感じます。あるいは「人間を超えた存在の気配を感じる」と言った方が分かりやすいかもしれません。美しい自然に対してだけではなく、ある人は科学を深く極めようとしたときに、そのような気配を感じるかもしれないし、素晴らしい芸術作品に出合ったときに、その中にそういう気配を感じる人もいるかもしれません。
 私は、みんなにも、時にはそういった「人の力の及ばない人間を超える存在」について考えてもらいたい。そういった存在の気配を素直な気持ちで感じようとしてもらいたい。なぜならば、それは、自分とは何者かとか、自分は何のために生きているのかといった自分自身について考えることと、深いところで結びつくと思うからです。

 そして、敬虔とはそのような「人間を超える存在」に対して抱く憧れとか、畏敬の念、厳粛な気持ちのことを言います。別の言い方をすると「自分の力の及ぶところまでは一生懸命にしますので、それ以上のことはお委ねします」という気持ちのこととも言えるでしょう。
 「自分は敬虔な人間です」などと言う人はほとんど誰もいないでしょうし、私もとてもそんなことは言えませんが、でも敬虔な人でありたいと思う。自分の心を本当に豊かにするのは、財産や名誉ではなく敬虔な心だと思うからです。きっと、敬虔な心から出た言葉や行いは、謙虚で、誠実で、しかも力強い。逆に、敬虔から遠い心のときは、ねたみや偏見、自己満足に陥りやすいだろうと思います。

 広島学院は、敬虔なカトリック信者を養成することを目的にした学校ではありません。初代校長も、はっきりとそのように言われています。ですが、創立以来ずっと「敬虔」を4つの宝の1つとして大切にするように、生徒に勧めています。その意味を、よく考えてもらいたい。誰よりも敬虔な心の持ち主であった聖母マリアを称えるこの季節に、敬虔が宝であるということを、あらためて意識してもらいたい。そんな思いで、しばらくこの言葉を掲げておきます。