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講話

11月17日 朝礼

おはようございます。
 先日、学院の古いOBの方とお会いする機会があって、そのときに、最近、制服のポケットに手を入れて歩いている学院生を町でよく見かけるという話をお聞きしました。この方は、「近頃の学院生は」などといって小言をあれこれおっしゃる方ではありませんが、ズボンのポケットに手を入れて背中を丸めて歩いている姿はあまりにもみっともないと、嘆いておられました。ズボンだけでなく、上着のポケットに手を入れて歩くのも格好悪い。ポケットに手を入れるのが癖になっているのかもしれないが、手を出して、胸を張って、若者らしく颯爽と歩きなさい。

 今日は、先週言ったように、学院の校歌にもある「叡智をひとみに」ということについて、少し考えてみます。
 「えいち」という字は、英語の英に知識の知と書くこともあります。校歌で使われている字は、みんなも知っているでしょうが、この字を何と説明しようかと考えていると、歴史の先生が、比叡山の叡に明智光秀の智を書いて「叡智」だと教えてくれました。そう言われると、それだけでも何となくこの言葉の意味がわかるような気もしますが、それはさておき、国語辞典を調べれるとどちらの字を書いても同じ意味で、「叡智とは、簡単にはわからないような物事の本質をはっきりと理解する優れた知恵」といったようなことが書いてあります。知恵という言葉はよく使いますが、「物事をただ知っているというのではなく、それについてきちんと考えたり処理したりする心の働きや能力のことを知恵という」とあります。
 このように、叡智というのはなかなか難しい言葉ですが、もう少し詳しく調べてみると、叡の字は一説によると神様の力を表すというような解釈もあるそうです。校歌にある「叡智」には、「神から与えられた知恵」という意味も込められているのかもしれません。

 私は「叡智をひとみに」という歌詞を聞くと、教養というものが人に見せようとしているわけではなくてもその人から溢れているイメージを抱きます。「教養のある人」とは、色々なことをよく知っている人のことだと思うかもしれませんが、本当の意味で「教養がある」とは、単に知識が豊富であることではありません。「教養」は英語では culture で、その語源は「耕す」という意味だそうです。土地を耕して豊かに実るように作物を育てるのと同様に、自分の頭や心を耕して、学問や知識を身に付けるだけでなく、心の豊かな優れた人格を育てようとする人が、教養のある人ということです。

 もう少し具体的に考えると、色々なことに疑問や関心を持ち、それについて知識を集める。そしてその知識について深く納得できるまで様々な方向からじっくりと考える。さらに、その考えを他の人に言葉できちんと伝える。そういったことを通して、知識を自分のものにし、いずれそれを人の幸せのために役立てる、そういう人が教養のある人です。「人の幸せのため」のつもりの科学技術が「自分の儲けのため」に替わってしまったり、「人の幸せのため」のつもり政治が「自分の権力のため」に替わってしまったりすれば、そんな科学者や政治家は教養がある人とは言えない。教養は、どれだけ知識を獲得したかではなく、知識を獲得する過程でどれだけ感性、品位、精神力などを磨き、人間性を高めたか、そこが問われます。そういう意味で、私は「教養を高める」ということと「叡智をひとみに」ということにつながりを感じます。

 
 さて、みんなは本当の意味での教養を高めようとしているかどうか、「叡智をひとみに」という姿になりたいと感じているのかどうか、考えてもらいたい。何とかしたいと思いつつも、なかなか自分を高めようという意欲が持てない、やる気が出ないと感じている生徒もいるでしょう。自分の外にその原因を探すのではなく、自分の中にある原因をしっかりと見つめないと、いつまでたってもその状態から抜け出すことはできません。

 みんなはそれぞれに高い能力や才能を持っているのだから、学校の中で生き生きと生活ができれば、「叡智をひとみに」というのは現実的なものになっていくと思います。自分にはとても及ばない、自分とは関係のないことだと決め付けていては、前に進みません。まずは、「叡智をひとみに伸びゆくわれら」でありたいという気持ちをしっかりと持つことが大切です。だから、ずっと校歌にも歌われています。そういう思いで、しばらくこの言葉を掲げておきます。