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講話

5月11日 朝礼

おはようございます。
 全校朝礼で話をするのは4週間ぶりですが、ずっと気になっていることがあります。それは、朝、警備員さんが校舎の前に立って登校してくる生徒に声をかけてくださる姿をよく見ますが、そのときに何も返事をしない生徒や、返事をしても声の小さい生徒が少なからずいるということです。
 本当はみんなの方から先に「おはようございます」と挨拶をしなければならない。この事に限らず、気持ちのこもった挨拶をきちんとするというのは毎日の生活の基本です。できている生徒もたくさんいますが、みんなができないといけない。きちんとするように心がけてください。

 さて、5月も中旬に入りました。昨年も話したように、5月は、カトリック教会ではイエス・キリストの母マリアを称える「聖母月」に定められています。それに因んで、学院では毎朝祈りの集いを行っています。朝のひと時を、生徒や先生の話を聞きながら心静かに過ごすという経験をぜひみんなにしてもらいたい。積極的に参加してください。
 
 「祈りの月」でもあるので、今日は聖書によく出てくる「謙遜」ということについて、少し考えてみたいと思います。

 「誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という聖書の言葉をどこかで聞いたことがあるでしょう。他にも「謙遜を身に着けなさい」とか「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」など、聖書には謙遜でありなさいという教えが度々出てきます。

 謙遜という言葉を国語辞典で調べると、「控えめな態度で振る舞うこと。へりくだること」と書いてあります。日本はどちらかというと控えめに振る舞うことが美徳とされる文化の国なので、私たちは、へりくだる態度が割と自然に出てくるかもしれません。確かに、思い上がって偉そうに人を見下すような高慢な態度は、実は自分を能力以上に飾り立てているだけで、周りの目には大変みっともなく映ります。同じように、人に気に入られようとして必要以上に自分を卑しめても、それは卑屈な態度であって、決して人とのいい関係は保てません。

 聖書の教える謙遜というのは、人の力の及ばない人間を超えた絶対的な存在に対して憧れや畏敬の念を持ち、その前で自分自身を騙すことなくあるがままに認める態度のことです。神の前で、いいところも悪いところも、自分の全てをありのままに認める態度のことです。

 私たちはみんなそれぞれに、何か優れた能力、才能を持っています。それを今まで努力して伸ばしてきたでしょう。でも、自分の力だけでここまで伸びたわけではない。それもまた事実です。その事実を認めないのは高慢、自分には大した才能はないと言っていじけているのは、卑屈な態度です。一方で、私たちはみんな、弱い部分、足りない部分もたくさん持っています。その弱さ、足りなさを認めようとしないのは高慢、弱さ、足りなさを何とかへつらいながら取り繕おうとするのは、卑屈な態度です。
 そうではなく、自分の才能を与えられたものとして、さらに伸ばし、人のために役立てようという態度、自分の弱さや足りなさを正しく見て自分に必要なものを知り、人の意見にも耳を傾けて学ぼうとする態度、こういった態度が謙遜な態度であり、優れた人格をつくる土台になります。

 ある記事にこんなことが書いてありました。「人が謙遜になれないのは、その人が真理とか人として行うべき道というものに真剣に取り組んでいないからだ。そういう努力を怠り、現状に満足していると、人間としての成長が止まるだけでなく、高慢になったり卑屈になったりする。」
 自分自身を振り返っても、その通りだと思います。真理とか人として行うべき道に真剣に取り組む人間でありたい、謙遜な人間でありたい、そういう思いでしばらく「謙遜」という言葉を掲示しておきます。

 早いもので中間試験まであと1週間です。勉強に対しても、高慢であったり卑屈であったりせずに、精いっぱいの努力をしてもらいたいと思います。