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講話

6月13日 朝礼

おはようございます。
 今日は高1の生徒は、朝から広島大学に見学に行っています。大学とはどんな所なのかを見に行くわけですが、同じように今週の土曜日は、広島学院はどんな学校かを見に、多くの小学生がやって来ます。オープンスクールです。中1の生徒、高校生徒会や中学代表者会議、そしていくつかのクラブの生徒などに、当日小学生のお世話をしてもらうことになっています。広島学院のことを世間に知ってもらう広報活動で最も大きな力を発揮するのは、我々教員ではなく、施設や設備でもなく、生徒の生の姿そのものです。その点よろしくお願いしたいと思います。

 さて、今週から廊下には「本気」という言葉を掲げてもらっています。この本気という漢字に「マジ」とルビを振ってそう読ませることもあるようです。辞書を引けば「マジ」というのは「まじめ」の省略形で「本気、本当であること」とあります。だから、マジと読ませるのも意味としては、そんなに外れてはいないのかもしれません。それはともかく、「本気」という言葉に対するイメージは、今の「マジ」というのも含めて、人によって結構違うように思います。随分簡単に気軽に「本気で」と言う人がいる一方で、「本気になる」とは「人生をかけて」「命をかけて」といった覚悟を持ってやることだと言う人もいます。そこまでの覚悟があれば間違いなく本気と言えるでしょうが、命は簡単にはかけることはできません。

 私の思う本気とは、自分で決めた目標に向かって最後までやり遂げる努力を続けること、決して途中で諦めないという覚悟を持って臨むということです。私もよく経験がありますが、本気でやり始めたつもりでも、途中で続かなくなるときがある。そのときに、そういう情けない自分を認めたくないから「自分には能力がなかった」とか「時間がない」「環境が悪い」といった言い訳を、考えてしまう。そういう言い訳を自分に許すようでは、どんな事でも本気になって最後までやり遂げるのは難しいでしょう。本気になるためには、言い訳をしないという強い意思を持つことが大切です。

 その他にも、本気になるために大切だと思っていることをいくつか挙げてみると、もう1つは、本気でやっている自分を周りがどう見ているかと、自分に対する周りの目を気にしないことです。本気である自分を周りに認めてもらいたいなどとは考えない方がいいし、逆に、本気になることを照れくさいとか格好悪いと思ってもいけない。社会には、本気でやることを茶化すような風潮も時々あるかもしれないが、そんなことを気にしていたら本気にはなれません。たいていの場合、そこまで気にするほど周りは自分のことは見ていないと思った方がいいでしょう。
 さらに、途中で行き詰ったときにどうしても必要ならば、人の助けを借りる謙虚さを持つということです。それはプライドが許さないとか、頼むのが面倒だなどと言わず、頭を下げてお願いできるようでないと、本気とは言えません。
 そしてもう1つ、最後まで努力を続けても、結果的に目標には届かないこともあり得ます。そのように、もしうまくいかなかったとしても、その事実を自分の中に受け入れる覚悟を、始めから持っておかなければならないということです。本気でやって、もし失敗をしたら、みっともない、何にもならない、自分が可哀想だなどと考えていたら、本気にはなれません。失敗することで私たちは成長するし、特に本気でやったときの失敗は、大きな糧になるものだと私は思います。
 以上、本気になってやっていくために大切だと私が思っていることを、いくつか話しました。

 先日の全校朝礼で、高2の文化委員長が、文化祭に向けてみんな本気になってやってほしいと訴えました。いい呼びかけでした。みんなには、こういった学校行事やクラブ活動、趣味、そして勉強にも、目標を達成するために本気で取り組むという経験を、たくさん積んでもらいたい。中途半端な気持ちでやっていたのではわからなくても、本気でやることによって見えてくるものが、必ずあるはずです。だから、何事にもなかなか本気になれず、何となく毎日が過ぎていくというのは、もったいない。今の自分はそうだと思う人は、周りをよく見てほしい。本気で頑張っている人がたくさんいるでしょう。そんな姿をしっかりと見ながら、目の前のことに本気で取り組む気力を出してほしいと思います。