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講話

1月30日 朝礼

おはようございます。
 3学期になって私がここでしゃべるのは、実は今日が最初になりますが、今学期もすでに3分の1が過ぎました。高3はいよいよ明日で学院の授業が終了します。先週の木曜日、高3の代表者が、後輩への言葉を語ってくれました。私は出張に出かけていて聞くことができず、HPで話の内容を知りましたが、いい話だと思いました。「6年間の学院生活が楽しかった、自分の糧になったと胸を張って卒業できるように、丁寧に心を込めて毎日を過ごしてください」と言った「丁寧に、心を込めて」というのを、後輩のみんなは本当に心に留めておいてほしいと思います。

 さて、今学期の初めから廊下には「志」という言葉を掲示しています。書道の中村先生が書いてくださったものですが、堂々として力強い「志」を私は感じます。辞書を調べると、「志す」という動詞は「心指す」が語源だそうで、「志」とは「心の向かうところ。心に決めた目標に向けて進もうとする気持ち」とあります。

 今の時期は、志という字を見ると志望校の志をイメージする人もいるかもしれません。だけど、ただ単にどこの大学を目指すとか、大学に進学して、例えば将来は医者になりたい、政治家になりたいなどというだけでは、志とはいえない。どんな医者になりたいのか、政治家になって何をしたいのかといった、どんな生き方をしたいのか、何を成し遂げたいのか、志とはそういう自分の歩みたい人生の方向を示すものです。志などなくても生きていけると言われればそうかもしれませんが、一度しかない人生を生き生きと充実したものにするためには、志を持って生きることが大切でしょう。吉田松陰は「志を立てて、以って万事の源となす」と言って、弟子たちの心の中に志を確立することを、教育の主眼に置いたそうです。
 高3は明日で学院の授業が終了するといいましたが、みんながこの学校で6年間に受ける総授業時数は5700あまりです。この数は、他の中学・高校の6年間とそんなに変わりはないでしょうが、内容はかなり濃いものだと思います。その授業を通して、またそれ以外の場での学びを通して、自分はどんな可能性を持っているのか、そして何を志していくのかを見つける、そこに学ぶことの本当の意味があります。もちろん、ただ何となく言われたことをやっているだけでは学びではないので、志すものも見えてこない。みんなの中にも、あまり見つけようとしていない人もいるかもしれません。私自身も中学高校時代を振り返ると、何も考えていなかったわけではないが、志をはっきりと意識し始めたのは大学生の頃でした。人それぞれに時期はあるのでしょうが、中学生、高校生の頃からもっと自分の可能性をあれこれ真剣に考えていたら、また違った学生生活を送ることができただろうと、後でよく思ったものです。

 やはり広島学院の生徒には、自分の可能性や生き方について、しっかりと考えてほしい。そして高い志を掲げてもらいたい。その志を持って成し遂げたいことが、自分の利益や名声、権力を得るためといった自分中心のものでは、それは志というよりも野心とか野望といわれるものです。そうではなく、みんなの掲げる志は「他者のために、他者とともに」を実践的な行動へと導くものであってほしい。
 「あまり実現できそうもない高い志を掲げても意味がない。自分の能力に合った、そこそこ、ほどほどのものの方がいい」と考える人もいるかもしれませんが、私はそうは思わない。現実を見ながら高い志をもって物事に励めば、それだけ自分自身も大きく成長するだろうし、自分が成長すれば、志もまた中村先生の書かれた字のような逞しいものに成長する。そして、より喜びや生きがいの感じられる実りの多い人生を歩んでいく可能性が広がります。そのために、もっと高みを目指していこうというのが「マジスの精神」です。
 もうしばらく廊下に「志」を掲げておくので、よく味わってください。