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講話

2月6日 朝礼

おはようございます。
 昨日2月5日は、カトリック教会では「日本二十六聖人」の記念日に当ります。ちょうど420年前の2月5日、秀吉の命令により26人の宣教師や信徒が長崎の西坂で処刑されました。この二十六聖人についてはまたいつか話をしたいと思いますが、今朝は、この26人と同じ時代を生きた高山右近について話します。
 明日、大阪で、高山右近を福者の列に加える列福式があります。先学期、マザー・テレサが聖人の位に挙げられたときにも話しましたが、カトリック教会では、特に信仰が深く高い徳のあった人を、様々な調査を経て聖人の前の段階である福者に定めます。

 その福者となる高山右近は、1552年に摂津の国に生まれ、10歳のときに洗礼を受け、21歳で高槻城主になりました。敬虔な信徒で、城主として、立場の弱い人を大切にするとともに宣教にも力を入れ、多くの領民が洗礼を受けたそうです。たくさんの教会が建てられ、復活祭にはグレゴリオ聖歌が流れる中、荘厳、盛大にミサが行われたという記録も残っています。
 秀吉の時代になって、右近は播磨の国の明石の城主になり、同じように城主の務めを果たしていましたが、突然の伴天連追放令によって、秀吉から棄教を迫られました。しかし、地位や財産を全て投げ出しても信仰を守ることを選び、その後およそ30年間、加賀の前田家に身を寄せて、静かに宣教活動を続けました。長崎で二十六聖人が殉教したのは、右近が城主の座を捨てて10年ほど経った頃のことです。
 徳川の時代になって、禁教令により右近一家は、およそ100人の信徒とともにマニラへ国外追放となりました。小さく粗末な船での苦難な航海の末にマニラに上陸した彼らは、市民から信仰の勇者として、熱狂的な歓迎を受けたそうです。しかし右近は、長旅の疲れや慣れない気候のため、体力が衰え、熱病にかかり、およそ40日後、63年の生涯を閉じました。マニラ中の教会の鐘が鳴り響く中、葬儀が執り行われ、多くの市民がお別れに駆けつけたそうです。
 死後ほどなくして、世俗に惑わされず信仰生活を貫いた右近の列福を求める動きがマニラの信徒の間で起こりましたが、日本での調査ができず、列福には至りませんでした。そして没後400年経って、教皇フランシスコにより、正式に福者として認定され、明日、列福式が執り行われます。列福式は、かつてはバチカンでありましたが、現在はゆかりの地域で行われることになっており、日本ではこれが2度目の列福式です。前回は2008年に長崎でありました。右近が亡くなる前後40年ほどの間に日本各地で殉教した188人の列福式でした。日本国内では、列福式といってもあまり話題にはならないかもしれませんが、カトリック教会にとっては、大きな意味のある式です。高山右近が、今この時代に福者に挙げられたことを、みんなもよく知っておいてほしいと思います。

 最後に、今週から廊下には「誇」という言葉を掲げています。英語でプライドですが、よく「プライドを持て」と言われることもあれば、「プライドなど捨てろ」と言われることもあります。プライドというのは、扱いが難しい。特に「プライドが高い」というのは「見栄っ張りである」「虚栄心が強い」といったイメージで使われると、あまりいい響きではありません。見栄とか虚栄心はつまらないプライドで、捨てるべきものでしょう。
 「自分自身に誇りを持つ」という言葉も時々耳にします。このことについて、みんなにも考えてもらいたいと思っていますが、その話はまた次の機会にします。