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講話

2月27日 朝礼

おはようございます。
 2月もあと2日となりました。今月の初めから廊下にはずっと「誇」という言葉を掲げたまま、なかなか話をする機会がありませんでしたが、今朝はこの言葉について話します。

 辞書には「誇り」とは「自慢に思うこと」「得意のさまを示す心」「光栄に思うこと」などとあります。「親を誇りに思う」と子どもに言われると、親は喜ぶでしょう。「広島学院に誇りを持っている」と生徒や卒業生が言えば、私はもちろん嬉しい。だけど「学校に誇りを持ちなさい」と言われて持てるものではないし、学校のどこに誇りを持っているのかというのも気になります。建学の精神が今も学校の中に生きているということに誇りの持てるような学校でなければならないと、私は思っています。

 それはさておき「自分自身に誇りを持ちなさい」という言葉を時々耳にします。何か立派なことをして人から高い評価を受けたときに、そういう自分を誇りに思うのはいいことでしょう。しかし、人から高く評価されることでしか自分に誇りは持てないというのであれば、それは間違いです。人の評価は絶対的なものではないのに、人の評価ばかりを追い求め、その評価に振り回されるというのは、決して良い生き方ではありません。
 また、自分に誇りを持つというのが、自分は他の人よりも優れているという意識で、人前で「自慢する」とか「得意になる」ということであれば、辞書にある「誇りを持つ」というのには当てはまるのかもしれませんが、そんな誇りは別にいらない。

 このように、人からの評価や人との比較でしか自分の価値を見つけられないようだと、自分自身に誇りを持つといっても、それは「みっともない誇り」になるかもしれません。そうではなく、当たり前のことを当たり前のようにきちんとやっている自分に価値を感じて、そこに誇りを持てるようになりたい。そのためには、当然、毎日やるべきことを根気強くやっているか、より高みを目指して努力しているかといったことが、どうしても問われます。やろうとしていることの難しさや、勝ったか負けたか、人が認めてくれるかどうか等は関係ない。勉強でもクラブでも他の活動でも、一生懸命に取り組んでいれば、自分の中でひとまず「よし」と認めてあげる。それが、自分自身に誇りを持つということだと私は思います。
 その誇りは、顔を上げ前を向いてまたしっかりとやっていこうという気持ちを、強めてくれます。困難を乗り越えて自分らしく生きていく力になります。そして、自信と謙虚さを生みます。
 
 ある人の言葉に「誇りを持つ生き方というのは、自分の人生を立派に生きようと考えることから生まれる」というのがあります。今を立派に生きることから始めなさいということでしょう。
 自分自身に誇りを持つということについてみんなにも考えてもらいたいという思いで、今週いっぱいこの言葉を掲げておきます。

 話は変わって、行事予定表にも書いてありますが、今週の水曜日は「灰の水曜日」で、1時から聖堂で「灰の水曜日の典礼」があります。
 毎年この時期に話していますが、灰の水曜日は、復活祭の日から日曜日を除いて40日遡った日と決められています。その復活祭は「春分の日の後の最初の満月の、その後の最初の日曜日」と決まっています。今年の場合、春分の日の後の最初の満月が4月11日の火曜日だから、復活祭は4月16日の日曜日となり、そこから日曜を除いて40日遡った日が、今週の水曜日だということです。この40日間をカトリック教会では「四旬節」といい、日ごろの行いを反省し心を清らかにして、復活祭のお祝いの準備をする期間になっています。
 灰の水曜日の典礼では、司祭が一人一人の額に灰で十字架の印を付けます。私たちの体は、いつかは塵に帰っていく儚いものであることを思い出すためです。と同時に、灰は古くから石鹸の代用品として、洗ってきれいにするために用いられていたということで、額に付けられた灰は、心をきれいにし、新しくするといった意味も込められているそうです。宇宙万物を創造した永遠なる存在の前では、人間はほんの小さな取るに足りないものであることをあらためて認識し、謙虚な気持ちになって傲慢な自分を悔い改める。そして、自分の足りなさや弱さと向き合いながら、与えられた才能を生かしてチャレンジする自分に変わろうという決意を新たにする。そのための典礼です。
 この典礼には、誰でも自由に参加して灰の印を受けることができます。ぜひみんなも、水曜日の1時に聖堂に来てください。