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講話

5月1日 朝礼

おはようございます。
 今日から5月です。真っ青な五月晴れのもとで、木々の緑は明るく輝き、花々が色鮮やかに咲き誇る、そんな季節です。毎年話していることですが、この風薫る美しい5月を、カトリック教会ではイエス・キリストの母マリアを称える「聖母月」に定め、学院では毎朝、聖堂で「祈りの集い」を行っています。朝のひとときを、生徒や先生の話を聞きながら心静かに過ごすという、この学校がずっと大切にしている集いです。ぜひ、みんなも参加してください。

 そしてもう1つ、カトリック教会では今のこの時期、復活祭からの50日間を「復活節」と定め、イエス・キリストの復活を思い起こし祝います。今年は先々週の日曜日、4月16日が復活祭でしたが、その後、先週そして昨日と、日曜のミサでは復活したイエスが弟子たちの前に姿を現す場面の福音書が朗読されました。
 そのうち先週の日曜のミサで朗読されたのはヨハネによる福音書で、11人の弟子たちの前に最初に現れる場面です。この11人はずっとイエスと行動をともにし、多くの弟子の中でも中核となる存在でしたが、それでもイエスの教える福音の意味がよく理解できていなかったようです。イエスが捕らえられたとき、自分たちもその仲間として捕まることを恐れ、イエスを裏切って逃げました。そのイエスが十字架上で亡くなって、弟子たちはいよいよ混乱し放心状態に陥っていたかもしれません。

 ヨハネの福音によると、そんな彼らが1軒の家に集まり、ユダヤ人を恐れて戸に鍵をかけて閉じこもっていたところに、復活したイエスが現れました。彼らはイエスの姿を見て、おそらく最初は驚いたでしょう。裏切って逃げたことを厳しく叱られると思ったかもしれません。でも何も咎められることなく、驚きは懐かしさに変わり、喜びに変わっていきました。
 ところが、そのとき弟子の一人のトマスは出かけていてその場にいなかった。戻ってきて、他の弟子たちから、復活したイエスに出会ったという話を聞かされます。みんな感激してそのときの様子をトマスに話したのでしょうが、トマスは「自分の目でその姿を見なければ、私は決して信じない」と言って、みんなの話を信じようとはしませんでした。
 そして8日後、相変わらず弟子たちは家に鍵をかけて閉じこもっていました。そのときはトマスも一緒でしたが、そこにイエスが現れます。トマスは、イエスが十字架上で受けた腕やわき腹の傷跡を見て、イエスが復活したということを確信しました。そのときイエスがトマスに「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言ったその「見ないのに信じる人は幸い」という言葉を、今週から廊下に掲げてもらっています。

 以上がヨハネの福音の20章の後半に書かれている出来事です。信仰の目で読まないと、死んだ人が復活するなんて現実的にはあり得ないという人もいるでしょう。トマスが「自分の目で見ないと信じない」と言ったことだけが共感できると思っている人も多いかもしれません。
 弟子たちにとって、復活したイエスとの出会いの体験が実際にどのようなものであったのかは、私にはよく分かりませんが、そのことはまた次の機会に話すことにして、このときイエスは「見なくても信じなさい」と言われたのではない。「見ないのに信じる人は幸い」と言われました。決して、わけが分からなくても言われた通りに信じなさいということではない。ただ、初めから拒否するのではなく、イエスとの出会いを求めて心の中に何か納得できるものを見つけたら、素直にその気持ちに従えばいいのだと教えられているように、私は思います。

 一方で、復活の話から離れて私たちの毎日の生活の中で考えても、同じように、目には見えないけども正しいと信じたいもの、あるいは信じるべきものは、いくらでもあります。愛情、友情、思いやり、親心など、はっきりとは見えないことが多いかもしれません。「思いやりがあるのだったら、形で見せろ」などと言いたくなることもあるかもしれないが、そんな心持では、多分いつまでたっても満たされません。そんなことを言わなくても、その人の思いやりを心で感じてそれを素直に受け入れることができれば、人生はもっと豊かになるでしょう。そのためには、自分自身も、見えなくても正しいと周りの人に信じてもらえるように努めることが大切だと思います。
 「見ないのに信じる人は幸い」という言葉を暫く掲げておきます。