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講話

6月5日 朝礼

おはようございます。
 先週の木曜日から、本校の卒業生2人とエリザベト音楽大学から1人の合わせて3人の大学生が、教育実習に来ています。今朝はまず、この3人の先生に簡単に挨拶をしていただきましょう。

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 この3人の先生方は、職員室の教員よりもみんなと年齢が近い。こういう若い先生方と接する機会は普段は無いので、みんなも色々な場で実習生の先生方と積極的に関りを持てばいい。実習する先生方にとってもみんなにとっても、いい3週間になればと思います。

 さて、今週から廊下には「すべて定められた時がある」という言葉を掲げてもらっています。これは旧約聖書の中の「コヘレトの言葉」にある一節、「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」の最後の部分です。本当はこの一節すべてを掲示したかったのだけど、長いので最後の部分だけにしました。コヘレトとは伝道者という意味だそうで。

 「すべて定められた時がある」というと、今がその定められた時かどうかをよく考え、正しい時に正しい事を行いなさいと言われていると感じる人もいるでしょう。私たちはみんな、今この時というチャンスを逃さないように心掛けなければならないが、一方で今はその時ではないという判断が必要なときもあります。その定められた時をきちんと知る知恵が与えられるように、神様により頼みなさいとこの言葉は教えている……。
 そういう読み方も良いと思いますが、もともとはこの言葉は、今現実に自分自身に起こっている事柄は今の自分に相応しいちょうどいいタイミングで起こっている、そのように神様が計らってその時を与えてくれているので、その時をしっかりと受け取りなさいということを教えていると、私は思います。

 私たちはみんな、日々様々な時と出会い、様々な時を体験しながら、一歩ずつ成長の歩みを続けています。しかしこの様々な時との出会いがただ偶然に支配されているというのであれば、成長への歩みも、自分の努力よりは運の良し悪しに大きく左右され、何か空しいものになってしまうように思います。
 そうではなく、いい時であっても悪いときであっても、それは今の自分に必要な時であり、今しかないというタイミングで起こっているのであれば、どんな時でも自分にとって意味のある時だということになります。そして、これまでの様々な時も、今この時も、これから迎える時も、何となく無秩序に並んでいるのではなく、意味のある順番で意味のある結びつきを持って並んでいるということにもなります。そうであれば、これからの成長への歩みは空しいものではなく、大きな希望の持てるものになると思います。

 私自身、実際に今までの自分の「様々な時」を振り返ってみると、「すべて」と言えるかどうかはもう少し考えるとして、でも確かに「定められた時がある」と言えるように思います。その時々に今の自分にとって必要なことが必要なタイミングで起こった。そこには、自分を超えた何か大いなるものの力が働いているように感じます。
 しばらくこの言葉を掲げておくので、みんなも「定められた時」というものの見方について考えてみてほしいと思います。