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講話

6月12日 朝礼

おはようございます。
 今週の土曜日は、オープンスクールがあります。今年、体験授業に参加を申し込んだ小学生は、昨年よりも100人以上多いそうで、なかなか人気があるようです。みんなの中にも、小学生の時に学院のオープンスクールに参加したのがきっかけで、学院に憧れを持つようになったという人が、結構いると聞いています。そしてその多くは、この学校の教員や設備、環境を見てではなく、世話をしてくれた学院生を見て、自分もこの学校に行きたいと思うようになったとも聞いています。当日手伝ってくれるのは、中1全員と各クラブや高校生徒会、中学代表者会議の生徒たちが中心ですが、小学生の期待を裏切らないようしっかりとやってください。小学生が100人多いということは、保護者もそれだけ多いということで大変でしょうが、よろしく頼みます。

 さて、今朝も「すべて定められた時がある」という言葉について、もう少し考えてみたいと思います。先週話したように、この言葉は旧約聖書の「コヘレトの言葉」の中にある「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」という一節に出てきます。今現実に自分自身に起こっている事柄は、今の自分に相応しいちょうどいいタイミングで起こっている、そのように神様が計らってその時を与えてくれているということを教えていると、先週話しました。その与えられた時をどのように過ごすかは自分自身の問題で、それをよく考えないといけないということです。

 その時を与えたのが神様なのかどうかという信仰の問題はひとまず横に置いておいても、「何事もすべて定められた時がある」という「時」に対する考え方は大切だと私は思います。1週間前の本校のHPに、阿部先生が次のように書いてくださいました。「経験することや出会いには、無駄なことは何もありません。その中で、転機となる日が必ずきます」と。定められた時があるとすれば、このような確信を持つことができる。そして「その時のために、やるべき時にやるべきことをする姿勢を身に着けよう」という前向きな気持ちも強められると思います。

 さて、コヘレトの言葉はその後「生まれる時、死ぬ時」から始まって、定められた時について、対の形で28の様々な例を挙げています。「泣く時、笑う時」「嘆く時、踊る時」「求める時、失う時」「保つ時、放つ時」「黙する時、語る時」「愛する時、憎む時」「戦いの時、平和の時」等々。二千数百年前に書かれたものだと思いますが、今に通じる事柄が並んでいます。そしてさらにその少し後に「神はすべてを時宜にかなうように造り…」という言葉が出てきます。

 ここで紹介している聖書の言葉は、一般によく使われている「新共同訳の聖書」と呼ばれているものからの引用ですが、それよりも古い「口語訳の聖書」では、「コヘレトの言葉」とは言わず「伝道の書」と呼ばれ、今の「神はすべてを時宜にかなうように造り…」という部分は「神のなされることは皆その時にかなって美しい」と訳されています。
 私は、この「時にかなって美しい」という訳が好きです。みんなにもこの言葉を紹介したいと思っていました。「神様は、美しいと感じるほど見事に自分にちょうど良い時に、定められた時を与えてくださる」というこの伝道者の信仰告白です。

 私も、今までの自分の様々な時を振り返ったときに、「時にかなって美しい」と言うことができれば本当にいいなと思います。だけど実際には、今自分が経験していることを「時にかなって美しい」とはなかなか言えない。特に苦しみや悲しみの中にある時に、こういう言葉はとても出てこないでしょう。それでもその辛い時も「定められた時」というのであれば、いつかそれを振り返って「時にかなって美しい」と言える日が来るのではないかと、私は期待をしています。

 その日を迎えるためには、辛い時でも、その時を早くやり過ごそうといい加減にして逃げてはいけない。その苦しみや悲しみをしっかりと感じて、その時を大切に過ごさないといけないと思います。もちろん、喜びの時もそれをしっかりと味わう。そこから、その定められた時々が自分にとってどういう意味の時なのかが見えてくるのだろうと思います。
 「定められた時」をどう過ごすべきかよく考えたいという思いで、もうしばらくこの言葉を掲げておきます。