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講話

2学期始業式

おはようございます。
 今日から9月、2学期が始まります。昨日の夜はサッカー日本代表の試合を見て興奮した人もたくさんいたでしょう。夏休みの終わりに感動的な試合を見せてもらって、2学期も頑張っていこうという力をもらったような気がします。

 その夏休みの間、みんなそれぞれに夏休みならではの様々な経験を積んだことと思います。私は、8月の下旬に1週間余り、栄光学園の校長先生と一緒にアメリカのイエズス会学校を訪問してきました。イエズス会のネットワークを利用して、特にアメリカの大学や高校と日本のイエズス会の中高4校との繋がりを築いていくための訪問でした。私にとっては言葉の壁が高いので、どうしようかとも思いましたが、よく朝礼で「チャレンジしなさい」と言っているので、自分も色々と体験してこようという思いで行ってきました。

 アメリカにはイエズス会の大学が28校、高校は58校あり、各校とも熱心にイエズス会教育に取り組んでいると聞いています。そのうち今回訪れたのは、ワシントン、ニューヨーク、ボストン、シカゴ、サンフランシスコにある6つの大学と4つの高校でした。多くの学校で、Men and women for others とか Magis など聞き慣れた標語が掲示されていたり、イエズス会のマークが飾られていたりして、姉妹校に来たのだなと感じさせられました。
 そこで聞いた話を1つだけ紹介すると、訪問した大学には世界各国から学生が来ているそうです。アジアからの学生も多いようですが、中でも多いのが中国やインド、韓国からの学生で、日本人は少ないそうです。だからぜひ日本からも学生が来てほしい、特にイエズス会学校からならばなおさらだという話も聞きました。
 入試制度の違いや高額な学費といった現実的な問題がありますが、グローバル化が進む時代にあって、海外の大学をもっと身近な存在と捉え、大学や大学院への進学について海外の大学を選択肢の1つに考えるということが、日本の高校生の中にも、これからはもっとあってもいいのではないかと私は思いました。

 さて話は変わって、新しい正門が1学期末に完成し、祝別式が終業式の日にありました。その祝別式の中で牛尾先生は、ヨハネの福音書に出てくる「私は門である」というイエスの言葉を引用して話をされました。神の国に通じる門ということで、広島学院の正門もそれを目指すような門になればといったお話だったと思います。
 「門」という言葉は聖書にも時々出てきますが、中でもよく知られているのが、マタイの福音書にある「狭い門から入りなさい」という言葉です。世間では難関校の入学試験などのことを比喩的に「狭き門」と表現することがあります。入りたいと思っている人がたくさんいて、入りたくてもなかなか入れない門ということでしょう。この福音がいう「狭い門」は、これとは違います。

 マタイの福音書は「狭い門から入りなさい」の後に「滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者は多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」と続きます。
 命に通じる門とは、神の国への門ということです。例えばイエスは、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とか「地上に富を積んではならない。富は、天に積みなさい」などと教えています。それは、なかなか難しく、選びたくない道のように思えます。それでも、そういう道を選んで進もうというのが、聖書の教える「狭い門から入る」ということです。

 実際に私たちの前に2つの門があったら、楽な方、みんなが行く方を選ぶことが多いでしょう。それらが全て聖書の言う「広い門」になるのかどうかは分かりませんが、少なくとも「楽そうだから」とか「みんなが行くから」といった理由で何となく選んでいたら、「広い門」から入ることになってしまうのだと思います。
 ここという時には、辛そうでも、みんなが行かなくても、「自分は狭い門から入る」という態度でありたい。その門が、本当に自分らしさを発揮して生き生きと打ち込める道に繋がっているということを、おそらく多くの人がどこかで経験したことがあると思います。
 私たちは日々の生活で、ただ何となく広い門を選んで入るのではなく、高い理想に通じる門はどちらかをよく考えて選ばないといけない。そして、それは多くの場合、あまり人が入ろうとしない狭い門の方だと福音書は教えています。

 2学期は体育祭や文化祭といった大きな学校行事があります。もちろん毎日の勉強やクラブ活動もそうですが、大変なときこそ「狭い門から入る」という心意気を持ちたい。そうすれば、また新しいものが見えてくるのだろうと思います。
 そんな2学期にしていきましょう。