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講話

10月10日 朝礼

おはようございます。
 今朝はまず、化学グランプリの表彰をします。

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 では話を続けます。
 カトリック教会では、10月1日はリジューの聖テレジアという聖人の祝日で、それに合わせて先週の朝礼で、この聖人について話をするつもりでしたが、雨でできなかったので、今日話したいと思います。みんなにはあまり馴染みのない聖人かもしれませんが、広島学院は創立時から、リジューのテレジアをフランシスコ・ザビエルとともに「守護の聖人」といって、神との間を取り次ぎ、学校を特別に守ってくださる聖人として称えています。

 テレジアは、1873年にフランスのノルマンディー地方の町で生まれました。敬虔なカトリックの家庭に育ち、小さい頃から修道女になりたいという望みを持っていましたが、年齢が達していないということでなかなかその希望は叶わず、ようやく16歳になって、フランスのリジューにあるカルメル会という修道会への入会が許されました。カルメル会は、修道院の外との繋がりを絶って、ずっと修道院の中で祈りと労働を中心とした生活を送る修道会です。テレジアも、入会後は修道院の外へ出ることなく、カルメル会員としての務めを果たしましたが、入会してから9年半の後、24歳という若さで結核で亡くなります。
 生前の修道院でのテレジアは、あまり目立たない存在だったようです。しかし、彼女の純粋でひた向きな信仰と、さらに彼女が残した自叙伝によって、多くの人が信仰を強められることとなり、亡くなって30年足らずで、聖人に挙げられました。そして、ザビエルとともに福音宣教の守護聖人に定められています。ザビエルは、東洋の国々に赴いて福音宣教に生涯を捧げ、福音の種を蒔きました。一方、修道院の外で活動をすることのなかったテレジアが福音宣教の守護聖人として崇敬されているのは、敬虔な祈りと犠牲によって宣教者とその活動を支えたからです。

 牛尾先生が以前、祈りの集いでお話されたことですが、テレジアは修道院での生活のすべての場面で、考え方や言葉、行動が少しでも自己中心的にならないように、徹底的に努力をしたそうです。生活の一こま一こまを、自我との闘いの機会にしたということです。そうすることで、聖書にもあるように「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、神と隣人を愛する」ということに常に挑んでいたのだそうです。
 テレジアのように、修道院の外には一歩も出ない祈りを中心とした生活にどれほどの価値があるのか、信仰の目で見ないとよく分からないかもしれません。しかしテレジアは、このように徹底的に自我と闘い、自分を低くすることで、神の存在をいつも身近に感じていたと思います。そんな生活の中で毎日多くの人のために祈りを捧げた生涯は偉大だと私は思います。

 テレジアは「私にとって祈りとは心のほとばしりであり、天に向ける素朴なまなざしです」と言っています。この「祈りは心のほとばしり」という言葉を、廊下に掲げてもらっています。「ほとばしる」とは勢いよく噴き出すことで、「祈りとは、心から自然とほとばしり出てくるものだ」という意味にも取れます。しかしテレジアは「自分の心そのものが神の近くへとほとばしり出ていく、祈りとはそのようなものだ」と言っているのだそうです。
 テレジアのように祈るというのは難しいかもしれませんが、でも「祈りとは、神に対して心から自然とほとばしり出てくる素朴な思い」という意味では、私たちは誰でも宗教とはあまり関係なく、祈る心を持っていると思います。苦しいときには助けを願いたくなるでしょうし、苦しむ人のために祈りたくなることもあるでしょう。大いなる存在に対する感謝や賛美の気持ちが湧き出してくることもあるでしょう。祈りは自分自身の生きる力になると私は思います。

 10月は毎朝聖堂で祈りの集いがあるので、ぜひ足を運んで、自分なりに祈りを体験してみるといい。リジューの聖テレジアの写真が聖堂の入り口のところに飾られているので、それもぜひ見てください。