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講話

2月5日 朝礼

おはようございます。
 今学期の始めから廊下には「新しい葡萄酒は新しい革袋に」という言葉を掲示していましたが、話をする機会がないまま、もう2月になってしまいました。この言葉については、また新学期を迎えたときにでも話をすることにして、今週からは「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」という言葉を掲げてもらいます。練達とは「熟練して達人の域に達すること」といった意味です。新約聖書の中のローマの信徒への手紙に出てくる言葉で、パウロ自身の信仰体験に基づくものですが、私たちも、苦難に対しては、絶望ではなく希望を生むと信じて立ち向かっていきたい。今週の金曜日はマラソン大会があります。辛いと思う人も、楽をしたいとか適当に済ませたいという自分と戦って一生懸命にやれば、達成感が得られる、そんな希望を持って精一杯の走りを見せてください。

 さて、今日2月5日は、カトリック教会では「日本二十六聖人」の記念日に定められています。今から421年前の2月5日、26人のカトリックの宣教師や信徒が、長崎の西坂の丘で処刑されました。このことについて、少し話をします。

 ザビエルがキリスト教を日本に伝えてからおよそ40年後、豊臣秀吉は、伴天連追放令を出しました。当初はさほど厳しい禁令ではなかったようですが、スペインの船の座礁事件をきっかけに、「宣教は日本を侵略するための予備手段ではないか」と疑った秀吉は、禁令を犯したとして、突然、京都と大坂の宣教師や信徒24人を捕らえ、磔の刑に処することを決めました。彼らは左の耳たぶを切り落とされ、京都や堺の市中を引き回された後、処刑の地は長崎という決定が下され、1597年1月9日、真冬の厳しい寒さの中、護送の役人に伴われて長崎へと歩き始めます。
 途中、自ら加わった2名を含め、26名は見せしめのために約1ヶ月間、900キロを歩かされました。そして2月5日の午前10時頃、西坂に着き、すぐに十字架に縛り付けられ、その十字架は一列に並べて丘に建てられました。その後ほどなく26人は、順に槍で突かれて殉教を果たしました。日本人が20人、スペイン人が4人、ポルトガル人が1人、今のメキシコから来た人が1人でした。
 この26人の殉教は、宣教師たちによってヨーロッパに伝えられ、広く知られることとなったようです。そして、それから270年近く経って1862年に、26人は時のローマ教皇によって聖人の列に加えられました。その10年ほど後に禁教令は解かれることになりますが、26人の殉教は、それまでの厳しいキリシタン弾圧の先駆けとなりました。

 キリスト教の殉教者とは、キリストへの信仰を貫いたために命を落とした人のことです。その不屈の信仰心に畏敬の念を抱きますが、一方で、信仰のためには命を奪われることをも厭わないという生き方は、なかなか理解し難いと感じる人も多いかもしれません。
 ただ、この人たちは死ぬことを望んでいたわけではなく、自ら命を絶ったわけでもありません。信仰の中で生きる喜びを知り、多くの人にそれを伝えたいという思いもあって、最後まで信仰の自由を貫いたのだと思います。そして死の間際でも、自分を殉教へと追い込んだ人の救いを心から願って、祈りを奉げました。同じ信仰を持つ仲間のためだけでなく、全ての人々への奉仕のために生きた人たちであったということを、心に留めておきたいと思います。

 ところで、この二十六聖人が京都から長崎まで歩いた道をできるだけ忠実に辿る道が、現在「長崎への道」として、カトリック教会公認の「巡礼の道」に指定されています。その巡礼マップや当時の行程を記したガイドブックが出版されており、図書室にも置いてあります。それによると、26人は処刑されるちょうど2週間前に、この辺りを歩いています。その前日は、西条から広島まで35キロを歩き、夜は広島城内の牢屋で過ごし、次の朝、広島城を出て旧山陽道に入り、己斐からすぐこの下の高須、古江、草津と、今の旧道を西に向かいました。さらに廿日市、大竹と歩き、夕方、新岩国駅近くの御庄という所に泊まったようです。48キロの行程でした。翌日は御庄から徳山まで46キロを歩いたようです。過酷な行程の一端が偲ばれます。こんなことも知っておくといいと思います。