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講話

11月19日 朝礼

おはようございます。
 土曜日に追悼式がありました。司式司祭をみんなに紹介していませんでしたが、司式されたのは、イエズス会のアガスティン・サリ神父です。インドのご出身で、今は上智大学で教え、理事もされています。広島学院に来たのは十数年ぶりとのことでした。厳粛な雰囲気でいい追悼式だったと仰っていました。

 そのサリ神父が追悼式でお話しされたように、牛尾先生の他に、学院と深い関わりのあったイエズス会員お2人が、今年お亡くなりになりました。本校は、創立期にイエズス会のカリフォルニア管区から多くの人的・経済的援助を受けましたが、お2人ともそのカリフォルニアから1963年、8期生が中1のときに来られ、学院の発展に尽力されました。
 1人は小崎次郎神父、米国名はウオルター・ブレナン神父です。18年間、本校で働かれました。アメリカ人だけど、英語ではなく化学を日本語で教えておられました。また当時は、今の清友駐車場の辺りに清友寮という学生寮があって、130人ほどの学院生が暮らしていましたが、ブレナン先生は長く寮長を務められました。私も舎監として1年、寮で一緒に生活をしましたが、いつも笑顔で、ユーモアと優しさを持って人と接する方でした。ただ筋の通らないことに対しては、頑固で厳しい父親の役割を果たしておられました。中高生130人の父親代わりの仕事は、本当に大変だったと思います。
 そしてもう1人はリチャード・デバイン修道士です。私はお会いしたことがありませんが、デバイン先生は、学院で2年間、ロサド先生のような木工の仕事をされていたと聞きました。当時の木工室は、今の売店の前から中央階段を少し上がった印刷室の辺りにあったそうです。現在、校内にデバイン先生の作品が2つ飾られていて、1つは聖堂にあるマリア像です。と言っても、聖堂でよく目にする青い衣を纏ったマリア像ではなく、聖堂に入った右にある階段を上がっていく途中に置かれている木彫りのマリア像です。学院在職中に作られたものだそうです。もう1つはアルペ講堂に入った左奥の階段の下に置いてある「山陽道を歩む聖フランシスコ・ザビエル」の像です。これは、アルペ講堂の完成に合わせてお祝いに作ってくださったものです。

 ところで、昨年までは、追悼式は牛尾先生が司式をされていましたが、お亡くなりになって、こういった式典やミサの司式をする司祭が、広島学院にはどなたもいらっしゃらなくなりました。これは学院の63年の歴史の中で初めての出来事で、新しい時代を迎えたと言ってもいいかもしれません。姉妹校の栄光学園や上智福岡も同じような状況です。
 かつては、広島学院でも他の姉妹校でも、たくさんのイエズス会の司祭や修道士の方々が、教員として、また事務や校務の担当として、働いておられました。国籍も日本以外に、アメリカ、ドイツ、スペイン、アイルランド、インド、フィリピン、韓国、その他、まさにグローバルな環境にありました。
 アルペ講堂2階のメモリアルホールにある石盤には、広島学院で働かれたイエズス会員の名前が、学院に来られた順に縦に並べて彫られています。一番上に初代理事長、一番下に今年の4月に来られた森先生、その1つ上には3月までおられたジョディ先生の名前があります。数えると全部で82名の名前があり、その内まだご存命という意味の赤い字で書かれている方が44名おられます。

 こういったイエズス会の先生方は、敬虔な心や高い倫理観、自分自身への厳しさなど、イエズス会教育が大切にしているものを、身をもって示しながら指導されましたが、勉強についても妥協を許さず、生徒を厳しく指導をされました。
 イエズス会の学校は、伝統的に「知的能力の育成」を大変重んじてきました。神から与えられた能力を可能な限り伸ばし、それをmen for others, with others に生かすことを目標としているからです。広島学院でもその伝統に従って、どんなときも授業を大切にし、さらに家庭学習を充実させることを、ずっと生徒に求めてきました。それは、単に成績を上げることだけを狙ったものではなく、より優れた人格を形成し、自立した人間に育ってくれることを期待してのものです。みんなもその伝統を受け継いで、学院生としての誇りを持って、勉学にも精一杯励んでもらいたいと思います。