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講話

6月17日 朝礼

おはようございます。
 今朝は、夏のキャンプについてみんなに伝えておきたいことがあります。昨年は広島県を襲った豪雨災害のため、キャンプは中止になりましたが、中3以上の生徒は、中1や中2のときに飯山にある学院のキャンプ場での夏のキャンプを経験しています。この飯山でのキャンプをこの夏の63期中2で最後とし、64期中1からは別の施設でキャンプを実施することになりました。

 飯山でのキャンプは、1期生が中1の夏から始まった、学院創立1年目から続く伝統行事の1つです。1期生が中1のときは、現在のキャンプ場の500mほど手前の場所にテントを張って行われたそうですが、2年目からはずっと今の場所でキャンプをしています。ですからおそらく、1期生から62期生までのほとんどの生徒が、今のキャンプ場でのキャンプを経験していることになります。そして63期生もこの夏に経験することになります。

 中1と中2は飯山でのキャンプの経験がないから、こんな話をしても何のことか分からないでしょうが、聞いてください。このキャンプ場のある場所は、最初から今のように200人の生徒が一緒に活動できるような開けた土地ではありませんでした。当時の記録によると、キャンプ場に着いたら、まず生徒や先生の手によって下草を刈り、地均しをしてテントを設営し、ごみを捨てる大きな穴を掘り、便所も作ったとあります。自分たちの生活の場を作ることから、キャンプは始まりました。さらに木を伐採して開拓を進め、藪の中に道を作り、キャンプ場を広げていきました。食事は「自分の飯は自分で炊く」ということで、毎回飯盒炊爨。もちろん作業だけでなく、昼は冠山登山や寂地峡への遠足に出かけ、夜はキャンプファイヤーを楽しんだようです。
 このように、学院のキャンプは、開拓の精神と協力の精神を育てることを目的に実施され、毎年生徒や先生の手によって少しずつ過ごしやすいキャンプ場へと、整備が進められました。寝泊りも最初はテントでしたが、9期生が中1のときにプレハブの山小屋が建てられて、さらにそれから20数年経って、今のログハウスに建て替えられました。
 もう1つ創立時と今のキャンプ場の大きな違いと言えば、もともとこのキャンプ場の目の前には、飯ノ山ダムの貯水池が広がっていたということです。昔は、生徒はそこで泳いだりボート遊びを楽しんだりもしたそうですが、私が学院に来たときには、そういった遊びは一切禁止されていました。静かできれいな湖でしたが、2001年の芸予地震でダムにひびが入って、貯水池はなくなり、今のような小さな川になりました。そのかわりに生徒が遊ぶための土地は広がりました。

 キャンプを経験した生徒は誰でも分かると思うが、電気はない、便所は遠いし夜中は真っ暗になる、風呂はなくそれに代わる山水のシャワーは冷たいなど、快適な生活環境とはいえない点もあるかもしれません。だけどそれでも楽しく充実した時間を過ごすことができるということを、体験的に学んだ生徒は多いのではないか。今の時代にはなかなか経験できない、学院ならではのキャンプだったと思います。
 しかし、人里を離れているため緊急連絡が取り難く、災害が発生すると孤立してしまう恐れがあるということを、いつも考えておかなければならないという現実があります。安全面に配慮しながら実施してきましたが、それよりも別の施設でキャンプをした方がいいと、学校は判断をしました。

 廊下には「新しい葡萄酒は新しい革袋に」という福音書にある言葉を掲げてもらっています。前にも話したように、「新しいものを受け入れるためには、今までの自分のやり方にとらわれない、新しい発想や方法(弾力性のある新しい革袋)が必要だ」と聖書は教えています。飯山キャンプについても、近年、各地で見られる異常気象ともいえるような豪雨や大きな災害を考えると、新しい革袋にならなければならないということかもしれません。

 なお、今年の中1から、夏のキャンプは岡山県瀬戸内市の牛窓にあるカリヨンハウスという研修センターで行うことにしています。たまたま姉妹校の六甲学院もここで夏のキャンプを実施していて、今年は学院の中1の後、六甲の中1がここを利用することになっています。
 飯山のキャンプ場は、1期生からずっとキャンプに参加した生徒たちによって整備され、より良いキャンプ場を作ってきたという歴史がありました。64期生からは、また違った新しいキャンプの歴史を作っていってもらいたいと思います。