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講話

6月24日 朝礼

おはようございます。
 今朝はまず、生徒会の風紀委員長から話があります。

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 生徒が自分たちで何とかしていこうというのは、価値のある活動です。そんな動きが色々な場面で広がってくれればと思います。

 さて、旧約聖書のコヘレトの言葉、伝道の書ともいいますが、この中に「黙るに時があり、語るに時があり」という言葉があります。文語体の訳では「黙すに時あり、語るに時あり」となっていて、これを近いうちに廊下に掲げてもらいます。
 2年前に話をしたので中3以上は覚えているかと思いますが、伝道の書に「すべて定められた時がある」という言葉があります。その後に「生まれる時、死ぬ時」など「定められた時」が対の形でたくさん示されている、その1つにこの「黙る時、語る時」というのが出てきます。
 「黙らざるを得ない時があれば、語らざるを得ない時もある。それぞれその人にとって相応しい時として、神が与えたものである」といった意味です。私たちにとっては「黙るべき時には黙りなさい。語るべき時には語りなさい」と呼びかけられていると考えてもいいでしょう。
 この呼びかけに答えるのは、なかなか難しいことかもしれません。「語るべき時に黙し、黙すべき時に語るは、知性の恥なり」という言葉を聞いたことがあります。何かを語らなければならない時に黙ってしまい、黙っているべき時におしゃべりをする人が、みんなの中にもいるのではないか。周りから見れば、かなりみっともないことです。

 ところで、この学校で「黙する時」の1つに「瞑黙」があります。学院だけでなく姉妹校の六甲や栄光でも、創立時から授業の初めや終わり、あるいは何かのために集合したり解散したりするときにも瞑黙をしています。この瞑黙の「瞑」は、目を閉じるということを意味します。「もく」の方は六甲や栄光では「目」という字を書いていますが、本校は「黙」の字を使っています。
 どちらも意味は同じですが、学院の「黙」という字が表しているように、目を閉じるだけでなく、音を立てずに沈黙を守るということをよく意識してほしい。ただし、沈黙といっても、ただ単にお喋りをやめて静かにするというだけではありません。あれこれ関係のないことを考えたり、思い巡らしたりせず、心を静かにし、授業の始めであれば、けじめをつけてこれから始まる時間を大切に過ごす心の準備をする、授業の終わりであれば、その時間の自分自身を振り返る、そのための「黙る時」です。祈りの時間と言ってもいい。
 さらに、瞑黙をするときには、きちんとした姿勢にもこだわってもらいたい。形も大切です。目を閉じて顎を引き、背筋をぴんと伸ばして動かない。姿勢が整うことと心が整うことは、繋がっていると私は思います。そういう美しい形の瞑黙を心掛けてもらいたい。

 そして瞑黙だけでなく、ここというときには沈黙も大切にしたい。集合したら沈黙、合同朝礼が終わったら沈黙。これも瞑黙と同じで、自分自身を振り返ったり、内面と向き合ったりするための「黙る時」です。自分の心に語りかけられている声に耳を傾けるための「黙る時」です。

 沈黙や瞑黙をきちんと実行するというのは、その人の学校生活の質を高めることになり、学校全体の質を高めていくことになります。ぜひ、そういった本当に意味のある沈黙や瞑黙を大切にしてもらいたい。この後も、教室に入るまで沈黙を守ってください。