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講話

7月1日 朝礼

おはようございます。

 1週間以上前のことになりますが、オープンスクールがありました。そこであるお母さんが「校内で困っているときに、生徒さんが親切に丁寧に案内をしてくれて、助かりました」と、わざわざ私に仰ってくださいました。
 実際に、準備の段階から多くの生徒が手伝ってくれ、また当日は、中1の生徒をはじめ生徒会や代表者会議、クラブ関係の生徒を中心に、たくさんの生徒が協力してくれました。おそらく千数百人の方が来校されましたが、子どもたちの笑顔や真剣な顔が溢れるいい雰囲気のオープンスクールになりました。オープンスクールは、外部の方に学校のことをよく知ってもらうための企画ですが、学校の魅力を最も正しく伝えるのは、生徒の姿や態度です。そういう意味では、多くの小学生やその保護者の方々に、学院に魅力が伝わったと思います。色々な形で協力してくれた生徒の皆さん、ご苦労様でした。

 さて、今朝は「物事を知る」ということについて少し考えてみたいと思います。論語に「学びて思はざれば則ち罔し」という言葉があります。国語の先生に解説をしていただいたら、ずっと深みが出るのでしょうが、私なりに色々と調べてみました。ここで出てくる「学ぶ」とは、教わること、誰かに(何かに)教えてもらうこと。「思う」は、自分で考えること、自分の意見を確立させること。「罔し」とは、ある分野に精通していることを「その分野に明るい」と言いますが、その逆の「暗い」に当たる意味だそうです。ということで「教えてもらうだけで自分で考えようとしないと、本当の理解には到達せず、自分のものにはならない」といった意味です。

 実際、授業で教わった色々なことをただ単に覚えて頭に入れるための努力は、たいていの場合、あまり面白くはありません。試験でそれなりの点数を取るためだけの勉強は、そういうものかもしれません。本当は、その教わったことを用いて何かを解決したり、新たなことが理解できたりすると面白いし、人との関係が豊かなったり世界の見え方が変わったりすると楽しいでしょう。そのためには、教わったことについて、自分でしっかりと考えないといけないということです。考えるとは、自ら何がよく分からないのか、何が問題なのかを知ることから始まると聞いたことがありますが、とにかく教わったことを自分のものにして役立てたいという強い意欲が、自分で考えることに導くのだろうと私は思います。

 ところで、イエズス会の創立者であるイグナチオは、物事を本当に「知る」ためには、体験→内省→実践→評価のプロセスが大切だと教えています。私たちは、このプロセスを「イグナチオ的教授法(Ignatian Pedagogy)」と呼んでいます。
 本校の元校長の李神父の言葉をお借りすると、私たちが何かを知ろうとするときには、まず体験が大切になる。体験とは、どこかに行って何かをするということだけでなく、何かを見たり聞いたりすることも体験だし、学校で受ける授業もすべて体験です。何かを体験して「楽しかった」「つまらなかった」といった感想を持つだけでは、ただ体験をしたということで終わりです。その体験を振り返り、「どういう意味があるのか」「どうしてそうなるのか」「どういうことに繋がっていくのか」「何が自分にとって問題なのか」といったような色々な問に自分なりに答えようとする、それが内省です。
 内省して自分なりにこれだという答えを見いだせば、その体験から何かを知ったことになります。その知ったことをもとにして行動するのが「実践」です。そして、その行動が本当にそれでよかったのか、意味があったのかを評価し、知ったことが本物であったかどうかを確かめます。
 この体験→内省→実践→評価を、物事を本当に知るためのプロセスとして、イエズス会学校は大切にしています。体験をした後、内省をしないと何も知ることにはならない。この点は「学びて思はざれば則ち罔し」という言葉に通じるものがあると、私は思います。

 あと1週間で期末試験です。試験を前にすると、とりあえずその試験を乗り切ることが目標になるのでしょうが、それでもあまり訳もわからないままただ丸暗記するのではなく、よく考えるということをしてもらいたい。物事を本当に知るということを目標に、取り組んでもらいたいと思います。