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講話

2月17日 朝礼

おはようございます。
 今朝は最初に「生命を見つめフォト&エッセー」コンテストで優秀賞をいただいた中1の生徒の表彰をします。

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 では、話を続けます。
 2月も半ばが過ぎ、3学期は残り1か月となりました。1年のまとめという意味でも、大切な1か月になります。30年近く前、当時の本校の校長(アメリカ人のイエズス会司祭)は、この時期になると必ず朝礼で「終わりよければ全てよし」と生徒に仰いました。1年を振り返って、ああすればよかった、こうすればよかったと思えるようなことがたくさんあったとしても、せめて最後をきちんとすることで、次の年に繋げることができるという励ましの言葉でした。みんなも何とかいい1年だったと言えるように、この1か月をきちんと過ごし、4月からの新しい学年に繋げてもらいたいと思います。

 廊下には、今週から「ごらんよ空の鳥」というカトリックの典礼でよく歌われる聖歌の題名を掲げてもらっています。みんなも、学校の色々な式典や祈りの集いなどで何度も歌ったことがあるでしょう。その1番の歌詞の前半は「ごらんよ空の鳥、野の白百合を。蒔きもせず紡ぎもせずに、安らかに生きる。こんなに小さな命にでさえ、心をかける父がいる」です。
 この歌詞は、マタイによる福音書にある「山上の説教」の一節からとられたもので、イエスが弟子たちに語った言葉です。ここに出てくる「空の鳥」は、美しい鳥とか可愛い小鳥というよりも、どこにでもいるような目立たない鳥です。「野の白百合」も、聖書では「野の花」となっていて、鑑賞されるような花ではなく、名もない花、燃料として燃やされるような野の草花です。「そのような、特に注目されることのない鳥や野の花をよく見なさい。種を蒔いたり糸を紡いだりしないのに、安らかに生きるよう、神の養いと配慮が行き届いている。ましてあなた方が、神の養いや配慮から外れているはずがないではないか」

 これがこの歌詞の一般的な解釈でしょうが、少し違った読み方もできると私は思っています。それについてはまた次の機会に話すことにして、聖書のこの個所の最後は、次のような言葉でくくられています。
 「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」
 「明日」というのは、ここでは将来全般のことでしょうか。「思い悩む」とは「心の中で考え苦しむこと」と辞書にあります。単に悩むのとは少し違うのでしょう。「明日のことまで思い悩むな」と言われても、心配や悩みの種は尽きず、そんなに暢気に暮らせるわけがないと言いたくなるかもしれません。もちろん、必要なことについてはしっかりと悩み、考えなければならない。だけど私たちは思い悩んでも仕方のないこと、どうしようもないことを、いつまでも思い悩み、不安や心配、恐れや焦りに心が支配されてしまうことがあるのではないか。その結果、今するべきことができていないということがあるのではないか。そんな時間の過ごし方は、勿体ない。「先のことを必要以上にあれこれと思い悩まず、今という時、あるいは今日という日を大切にして生きることを考えなさい」と、イエスは呼びかけています。私たちも「明日のことまで思い悩むな」という言葉を正しく理解し、意識することができればと思います。