コンテンツにスキップ

講話

10月5日 朝礼

おはようございます。
 1週間以上前のことになりますが、先日の体育祭は、無観客であることを感じさせないほど、みんなでよく盛り上げてくれて、爽やかな雰囲気のいい体育祭になりました。コロナ禍で、何かと制約はあっても、これだけのことができるというものを見せてくれました。体育委員長のM君をはじめ各組の応援団長や応援団、体育委員、その他準備、運営に関わった全ての生徒の健闘を称えたいと思います。
 ただ感染対策に関しては、意識の甘い生徒も見受けられました。これは今後の課題です。こういったコロナとの闘いがいつまで続くのか、そんなことを考えると気が重くなりますが、今回の体育祭はwithコロナの生活にも前向きに臨んでいこうという元気をくれたように思います。
 次は文化祭で、こちらも期待していますが、その前に中間試験まであと1週間となりました。この1週間は、部活以外の生徒は、すぐに下校して勉強をするか、学校に残って勉強するか、どちらかです。学院生は勉強するときの集中力がすごいと、何十年も前からよく耳にします。みんなもそうであってもらいたいが、集中力は、持って生まれた天性の才というようなものではなく、その時々に自分で獲得するものです。集中して勉強をする雰囲気を、みんなで作ってください。

 さて、廊下には今学期の初めからずっと「何を求めているのか」という、ヨハネの福音書に出てくるイエスの言葉を掲げてもらっています。この福音を書いたとされているヨハネ自身とその仲間の2人が、初めてイエスと出合ったときにイエスからかけられた言葉が、この「何を求めているのか」という問いです。それに対して2人はどう答え、何をしたかというのは、聖書を読めば分かるのでここでは触れませんが、後にこの2人はイエスの弟子になり、生涯イエスの教えに従って生きました。
 実はこの「何を求めているのか」というのは、ヨハネの福音書の中では、イエスが最初に語った言葉として記されています。ヨハネは、自分自身にとって生涯の道を見つけるきっかけになった大切な言葉であると同時に、全ての人にとってもいい人生を歩むために必要な問いかけだという思いで、これをイエスの最初の言葉に選んだのだろうと思います。
 実際に、私たちも「いったい自分は何を求めているのか」ということを、時にはよく考えてみるといい。もちろん欲望のままに何でも求めればいいというものではないでしょうが、それでもこの問いに対する自分の答えを考えるのは大切です。大きなことでもささやかなことでも、何かを求めているという強い気持ちが、次の行動の原動力になるはずです。

 併せて、みんなは広島学院の生徒として、この学校に何を求めているのか、何を求めてここで学んでいるのか、これについてもよく考えてみてほしい。それが、勉強や色々な活動のモチベーションになればいいなと思います。
 一方で、広島学院はみんなに何を求めているのか。これも大切です。
 本校は” Be men for others, with others” を目標にしていますが、そのために特に2つのことを生徒に求めています。1つは、みんなが持っている豊かな才能や知性をさらに伸ばすこと。それも単に伸ばそうとするのではなく、マジスの精神で可能な限り伸ばしていくという心意気を持って努力をすること。もう1つは、その伸ばした才能や知性を、将来何のためにどのように使うべきかをよく学ぶこと。生徒には、こういった求めに応じるために、頭も心も体もしっかりと鍛え、自分の持っている様々な可能性を見つけてもらいたいと思っています。

 最後に、カトリック教会では10月を5月の「聖母月」とともに「祈りの月」として大切にしています。これに合わせて、本校でも5月と10月は、毎朝聖堂で祈りの集いを開いています。今年は5月は休校でできなかったので、1年ぶりの祈りの集いになります。毎朝登校して、体を動かすのもいいし、勉強をするのもいいけど、時には生徒や先生のいい話を聞きながら静かなひと時を過ごすのもいいものです。聖堂にもぜひ足を運んでみてください。