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講話

2月28日 朝礼

 おはようございます。
 今日で2月は終わり、あと1週間で学年末試験です。今の学年をきちんと仕上げて次の学年に繋ぐためにも、この1週間、しっかりと試験の準備をしてください。

 さて、行事予定表にもあるように、今週の水曜日はカトリック教会で「灰の水曜日」と呼ばれている日です。灰の水曜日は「復活祭の日から日曜日を除いて40日遡った日」と決められています。復活祭は「春分の日の後の最初の満月の後の最初の日曜日」と決まっています。今年は春分の日が3月21日、その後の最初の満月が4月17日で、この日が日曜日なのでこの4月17日が復活祭です。そこから日曜を除いて40日遡ったのが今週の水曜日です。
 この日、本校でも1時から聖堂で灰の水曜日の典礼が行われます。その中で司祭が「回心して福音を信じなさい。あなたは塵であり、塵に帰って行くのです」といったことを唱えながら、一人ひとりの頭に灰で十字架の印を付けます。この灰は、棕櫚という木の枝を燃やして作ることになっています。棕櫚の木は、旧約の時代から聖なる木として崇められ、勝利や力の象徴とされてきました。それを燃やした灰を頭に付けることで、私たちの体は最終的には塵となる儚いものだということを思い起こします。

 この「塵」という言葉は、旧約聖書の創世記第2章、神が人を創造する場面に出てきます。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。」という箇所です。もちろん創世記は、進化論や宇宙の起源などと対比させて論じるものではありません。何を伝えようとしているかを考えないといけない。創世記はいくつかの資料を組み合わせて編纂されたようですが、この箇所は今から3000年ぐらい前、イスラエル王国が最も繁栄を極めていた頃に語られたといわれています。自分たちで何でもできるという驕りを戒め、人間は土の塵から造られたものに過ぎず、神に命の霊を吹き入れられたからこそ、尊いものとして生きているのだというメッセージです。
 灰の水曜日の典礼は、このように宇宙万物の中で人間はほんの一瞬を生きる小さな存在であることをあらためて思い出し、傲慢な自分を反省するとともに、それでも与えられた才能を積極的に活かしながら生きていこうという決心を新たにするための典礼です。この典礼には誰でも自由に参加して、灰の印を受けることができます。ぜひみんなも水曜日1時に聖堂に来てください。

 ところで、創世記の別の箇所にももう1つ、神が人間を創造する場面が描かれています。第1章の「光あれ」という言葉から始まる天地創造の最後、「神は御自分にかたどって人を創造された。」とある箇所です。土の塵で造ったというのとは随分違うように感じますが、この天地創造の物語は、先ほどのイスラエルの繁栄の時代から何百年か後、イスラエルの人々がバビロニアに捕らえられ、異国での生活を強いられた時代に語られたといわれています。厳しく絶望的な状況に置かれていても、人は神にかたどって造られた素晴らしい存在で、掛け替えのないものだという慰めと勇気を与えるメッセージです。
 そして天地創造が完成された後、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」とあります。これは色々と考えさせられる言葉です。いつの時代にも、「極めて良かった」とはとても言えない出来事が、世界各地で絶えず起こっています。この数日間、ウクライナではロシアの一方的な軍事侵攻により、亡くなるはずのなかった多くの人が命を失っています。全く酷い話です。「極めて良かった」という言葉が空しく感じられます。
 この「見よ、それは極めて良かった」というのは、さっきも言ったように、バビロニアに連行されて苦難や困難の中にあった当時のイスラエルの人々が、それでも大切にしていた世界観や人間観を表した言葉だと思います。今は「極めて良かった」とされる完成の途上にあり、完成に向かって自分たちは生きていると信じたのかもしれません。厳しく絶望的な状況に置かれていても、この世界を肯定的に捉えようとしました。

 神を信じる「信仰」の話は置いておいても、宇宙万物は人間も含め、「極めて良かった」と言われるように造られたものだということは信じたいし、そういう捉え方を大切にしたいと私は思います。そうであれば、人間一人ひとり違いはあっても、誰もが生きている価値があり、掛け替えのない尊い存在であるはずです。そして「見よ、それは極めて良かった」という言葉が、全ての希望に繋がります。
 この言葉を、この後しばらく廊下に掲げておいてもらいます。