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講話

2月21日 朝礼

 おはようございます。
 今朝は、最初に奉仕委員長から報告があります。
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 では話を続けます。
 広島県のコロナの新規感染者数はこのところ減少傾向にはあるものの、まだまだ数は多く、まん延防止等重点措置は3月6日まで延長されることになりました。本校の関係者にも、感染が判明したり濃厚接触に該当したりする人がまだ数人程度いる状況です。オンラインの朝礼では、みんなの様子が私からは全く見えないので、そろそろ前庭での全校朝礼が再開できるといいなと思っていましたが、今学期の間はまだ難しいようです。

 先週の全校朝礼で、タブレットを使うことで、自分の頭で考えることや間違いから学ぶことが疎かになるとすれば、それは困るという話をしました。同じようなことを、もう少しだけ付け加えておきます。
 ある学者によると、タブレットやパソコンに入力するのと実際に紙に書くのとを比べると、紙に書く方が記憶に関する脳活動が活発になり、記憶に残りやすいそうです。読むことについても、液晶画面は空間的な手掛かりがつかみ辛いので記憶に残り難く、紙に書いてあるものを読む方が記憶に残りやすいそうです。私も仕事でよく書いたり読んだりしますが、その通りだと感じます。
 人間は、記憶したことをもとに新しい考えや発想を生み出していくので、記憶するというのは、試験に出るかどうかなどとは関係なく大事なことです。紙を触り、手で書くということも、疎かにしてはいけない。その点もよく心得ておいてください。

 さて、先日私は、こんな記事を目にしました。「環境破壊や貧困、紛争などの難しい課題を何とか解決して、本当に豊かな世界を実現するために、今こそ人類の叡智の結集が求められている」というような記事です。よくありそうな記事ですが、広島学院の校歌にある「叡智」という言葉が使われていたので、目に留まりました。
 コロナ禍のためこの2年は校歌斉唱ができず、特に中1と中2は、入学以来まだ一度も式典で校歌を歌う機会がありません。あまり覚えていないという人もいるかもしれませんが、学院の校歌に「叡智をひとみに、伸びゆくわれら」という一節があります。

 「えいち」という言葉には「英知」と「叡智」があります。辞書を調べるとどちらも同じ意味で、「すぐれて深い知恵。高い知性」とあります。ただ「叡智」の方には「神がかった能力」という解釈もあるようです。だから本校の校歌の「叡智」は、「神から与えられた、物事の本質をはっきりと理解する最上の知恵」というような意味でしょう。先ほど紹介した記事は、この叡智を使っているところに大きな意味があるように私は感じました。
 因みに、広島学院や姉妹校を運営している学校法人上智学院の「上智」はギリシャ語の「ソフィア」の日本語訳で、「叡智」を意味するそうです。

 叡智は、あるレベルに達したから得られたと言えるようなものではありません。それぞれの時代に応じて、また一人ひとりの置かれている状況に応じて、生涯にわたって追い求めていくものでしょう。学院生にとっての「叡智をひとみに、伸びゆくわれら」とは、「生活のしおり」にもあるように、自分の能力を最大限に伸ばすために、様々なことを積極的に学びながら、日々研鑽を積み修養に励む生徒の姿を表していると私は思っています。
 「研鑽を積む」とは、学問などを深く究めることです。
 「修養に励む」とは、感性や品位、精神力などを磨き、優れた人格形成に努めることです。
 「学ぶ」というのは、ただ勉強をして学力をつけるということではありません。知識や技術を習得したり色々なことを体験したりして、新たな世界が広がったとか、今までとは違う何かが自分の中に生まれたといった、何かが変わった、成長したという実感を得ることが学ぶということです。
 このようにして、様々なことを学べば学ぶほどに、この世界はいかに神秘的で素晴らしいものとして創られているのかということを少しでも感じるようになれば、叡智という最上の知恵に近づくことができるのではないかと思います。

 みんなには、ぜひそのような深い学びのある学校生活を送り、校歌にある「叡智をひとみに、伸びゆくわれら」を体現してもらいたいと思います。