250901 2学期始業式「完全な愛は恐れを締め出す」
夏休みが終わりました。皆さん一人ひとりが、普段の学校生活ではなかなかできないことに挑戦できた40日だったのではないでしょうか。学校としても、嬉しいニュースがたくさん届きました。先ほど表彰された登山部や囲碁部、フェンシング同好会の全国的な活躍。フィリピン研修、能登ボランティア、福島研修に参加した人たちは、現地の空気や人々の暮らしを肌で感じたことでしょう。運動部の皆さんは、灼熱のグラウンドや体育館で歯を食いしばりながら練習を続け、文化部も研究や練習に打ち込みました。体育祭のオブジェ作りに励んでいた人もいましたね。まさに「挑戦」と「努力」の40日間だったと思います。
さて、被爆80年を迎えた広島。今年も「二度と同じ悲劇を繰り返さない」という平和を守り続ける声がある一方で、「日本の核武装」をまことしやかに主張する声も目にするようにもなってきました。なんでも、「国防を考えた時、核武装はコスパが良い」という意見もあるそうです。。。恐れや不安から「攻撃力」「抑止力」によって自分を守ろうとする考え方は理解できなくはありません。しかし、それは果たして人間らしい、望ましい道なのでしょうか。
また、この夏の冒頭には参議院選挙がありました。選挙のスローガンでよく聞いたのは「〇〇ファースト」という言葉です。自分の国、自分の地域、自分のグループを第一に、という考え方は分かりやすいし、人によっては心に響きやすいのかもしれません。実際に、そうした主張を強める勢力が議席を伸ばしました。けれども、こうした一連の現象は同時に、「自分と違う他者を排除する」ことにつながる危うさをはらんでいるように思います。
私は、この夏、仕事で東京に3回、大阪に1回行きました。コンビニ、レストラン、宿泊施設…どこに行っても外国から来た方が働いていました。大都市圏では特に日本人の労働環境が圧迫されていると感じる人もいるでしょうし、ネットには外国人観光客のマナーの悪さを切り取った動画が氾濫しています。でも、その一方で、日本の文化を心から愛し、日本に定住して教育に携わってくださっているロウ先生やハバコン先生のような方々の姿は、あまり報じられません。冷静に考えれば、「マナーの悪い人は属性ではなく、その人個人がマナーが悪い」ということとだと私は思っています。日本人にも、電車で大声で電話している人、いますよね。
しかしながら、大人の世界で、「自分のアイデンティティを守るために他者を、外国にルーツを持つ方を攻撃する」という現象が公然と見られるようになってきています。これは本当に望ましい姿でしょうか。
そんな中で、心に残ったのは、フィリピン研修から帰ってきたある生徒の言葉です。広島駅でお迎えをしたとき、彼はこう言いました。
「先生、やっぱり『愛』が何にもまして大切だ、ということが身にしみて分かった気がします」。
彼はフィリピンでどんな「愛」に出会ったのでしょうか。貧しくても笑顔で迎えてくれる人々、家族や仲間を何より大切にする暮らし、あるいは自分に注がれた温かなおもてなし…。そこには「損か得か」といった計算のない、ただ人を受け入れる「愛」の姿があったのではないでしょうか。
夏休みは、多くの人にとって、家族や趣味の合う友人と過ごす心地よい時間だったと思います。しかし学校生活は残念ながら、様々な現実の中で成り立っています。自分とは趣味も関心も違う人と同じ教室で学び、同じ部活で練習し、ときには意見の違いにぶつかる。けれども、それこそが学校生活の醍醐味の一つです。そして、違う人と関わる時に必要なのは「排除や攻撃」ではなく「愛」です。
聖書にはこんな言葉があります。
「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。わたしたちは愛しています。神がまずわたしたちを愛してくださったからです。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎むものがいれば、それは偽り者です。目に言える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」(ヨハネの手紙一 4:18–21)
恐れや不安は、しばしば「武装」や「排除」へと人を駆り立てます。しかし、恐れを超えて人と人が向き合うために必要なのは、愛の力です。
今学期は体育祭、そして新人戦・各種コンクールも始まります。自分と違うタイプの人とどう関わるか、その中でどう成長できるか、が試される場面がたくさんやってきます。その時に、「自分ファースト」ではなく「愛ファースト」を思い出してください。2学期が、愛に満ちた歩みとなりますように。