講話

講話

Address

1027全校朝礼 「うけたもう」

 先日、少し変わった体験をしてきました。宮島には弥山だけでなく、色々な山がありますが、その一つ、岩船岳という山で、「山伏修行体験」に挑戦してきました。今回は、「とそう行」といって、修行体験の間はずっと沈黙を守り、ただひたすら、「先達(せんだつ)」と呼ばれるリーダーの指示に従って、険しい、道なき道を進んでいきます。
 途中、般若心経などを捧げたり、小休止を挟んだりするのですが、面白いのはその返事です。先達が「小休止!」「食事!」と指示を出すと、私たちは「うけたもう」とだけ答えます。これは山伏修行をする方々にとって、「はい、承知しました。お受けいたします」ということを意味することばです。それ以外の私語は許されません。
 シダの葉をかき分け、慣れない登り下りを繰り返しながら、息が切れそうになる中、私は色々なことを考えていました。「『うけたもう』…一体、自分は何を受け入れているんだろう?」 「この厳しい山道のことだろうか?」 「それとも、人生でやらなければならないことだろうか?」 「普段の生活で、自分は一体何を『うけたもう』ているんだろう?」

 そうやって険しい道を進むうちに、ふと気づいたことがあります。それは、自分がいかに多くのものに「とらわれている」か、ということでした。 「あれもやりたい」「これはやりたくない」「こうあるべきだ」…。そんなこだわりや欲に縛られて、結局、何も手放すことができない。そんな自分の姿に気づかされました。
 もちろん、一日で答えが出るような簡単な問いではありません。結局、1日の修行体験が終わっても明確な答えは見つかりませんでした。ただただ、大自然の中で、自分という存在がいかに小さく、儚いものかを痛感しただけです。

 私なりに苦労して登りきった岩船岳の頂上から見た景色は、素晴らしく、阿多田島や大竹の街、遠く山口方面まで見渡せる、厳かながらも、とても穏やかな絶景が広がっていました。
 正直に言えば、私ごときがたった1日の「体験」をしただけで、山伏修行というものの本質を語ることはできません。入り口にすら立っていないでしょう。 今日話したことは、あくまで「何も手放せない自分」に気づいただけ、という私個人の感想に過ぎません。
 ただ一つ、あの修行体験で学んだ「うけたもう」という心を、明日からの日常でも忘れずにいたい、と思いました。

 さて、皆さんは中間試験を終えたばかりですね。お疲れさまでした。これから、試験の結果が返ってきます。 思ったより良かった科目、努力が報われた科目もあれば、悔しい結果に終わった科目もあるでしょう。「もっと勉強しておけばよかった」と過去にとらわれるかもしれません。そんな時こそ、まずはその結果を、良いものも悪いものも、すべて「うけたもう」と、いったん静かに受け止めてみてください。
 良い結果が出た時だけ喜ぶのは簡単です。しかし、うまくいかなかった時、悔しい時にこそ、その現実を受け入れる心が試されます。

聖書に、こんな言葉があります。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(テサロニケ一5:16-18節)
私には、この「どんなことにも感謝しなさい」という言葉が、修行体験で学んだ「うけたもう」という心と、深く響き合うように感じられました。

 嬉しさや悔しさに振り回される前に、まずは「これが今の自分の結果だ」と感謝して受け入れる。 試験はゴールではありません。大切なのは、その結果を受け止めた上で、「じゃあ、次どうするか」を考えることです。
 試験が終わって一息ついたら、また次の目標に向かって、目の前にある課題を一つひとつ「うけたもう」と受け入れ、丁寧に取り組んでいく。 そんな積み重ねが、必ず皆さんの力になります。今学期後半、いいスタートが切れる1日になりますように。