明けましておめでとうございます。 新しい年、新しい学期が始まり、新校舎建築も本格化してきました。中央階段や前庭の桜の木々が次々と取り壊されていく様子に、多くの学院生が何ともいえない寂しさを感じたかと思います。一方で、一時的ながら、いままで存在していたものがなくなったことで、瀬戸内の情景が今まで以上に見開けて、眼前に冬の絶景が広がるようになりました。この景色を見ていると、新しく希望が生まれてくる予感も強く持ちます。向こう3年間の工事では、皆さんにはいろいろ不便をかけますが、皆で乗り切り、新しい時代の新しい広島学院を皆で作っていくことができれば、と思います。
さて、2026年の幕開けは、世界にとって非常に重く、考えさせられるものとなりました。南米ベネズエラでの事態です。 昨年のノーベル平和賞受賞者であるマチャド氏と、大国による軍事介入。本来、「平和」を象徴するはずのノーベル賞が、結果として「武力行使」の正当化に使われているのではないか、という複雑な議論が世界中を駆け巡っています。「民主主義を守るための正義の戦い」だと主張する側と、「平和の名を借りた侵略だ」と批判する側。 SNSを開けば、右派と左派、あちらの正義とこちらの正義が、互いに相手を悪魔のように罵り合い、フェイクニュースが飛び交っています。 何が真実で、何が嘘なのか。私たちは今、そんな濃い霧の中にいます。
そんな中、今週から放送が始まった大河ドラマ『豊臣兄弟!』の冒頭で、非常に印象的なセリフがありました。主人公である豊臣秀長の言葉です。
「わしは、双方の味方じゃ」
戦乱の世にあって、敵か味方か、白か黒かを迫られる時代を背景に、彼はあえてこう言いました。もちろん、これはドラマの中のセリフで、一見すると、どっちつかずの卑怯な態度、あるいは日和見主義に聞こえるかもしれません。しかし、私はこの言葉に、今の私たちに必要な「知性」と「勇気」を感じるのです。
「双方の味方」であるということは、双方の言い分を鵜呑みにすることではありません。 それは、「対立する両者の背景にある、痛みや恐怖を想像すること」だと私は解釈します。ベネズエラで独裁に苦しみ、自由を求めて声を上げた人々の痛み。 一方で、大国の論理によって自国の運命を左右されることへの恐怖と反発。 どちらか一方を「完全な正義」、もう一方を「完全な悪」と断定して切り捨てることは簡単です。しかし、そうして分断を煽り、相手を排除しようとする心の動きこそが、人類が繰り返してきた争いの根源ではないでしょうか。
広島学院で学ぶ皆さんには、ここで、イエズス会の基本精神である「For Others , With Others」という意味を、もう一段深く考えてほしいのです。 「Others(他者)」とは、自分と意見が合う人だけのことではありません。自分とは違う正義を持つ人、対立している相手さえも含まれます。
今の世界情勢は、あまりに複雑です。だからこそ、皆さんには「学ぶ」必要があります。 流れてくる情報をただ感情的に受け取るのではなく、「なぜそうなったのか?」「歴史的背景は何か?」を冷静に分析する知性。 そして、安易にどちらかの陣営に加担して石を投げるのではなく、「分断された双方の間」に立ち、対話の可能性を探ろうとする勇気。それこそが、被爆地ヒロシマにあるカトリック学校、広島学院が目指す「平和の作り手」の姿なのだと思います。
「わしは、双方の味方じゃ」
この言葉を、事なかれ主義ではなく、「分断を乗り越えるための祈り」として捉え直してみてください。新学期、教室やクラブ活動の中でも、意見が食い違うことがあるでしょう。その時、すぐに相手を否定するのではなく、一度立ち止まって考えてみてください。「双方の味方」の視点を持てる君たちであってほしいと願っています。混沌とした時代ですが、だからこそ、君たちの若き知性と良心が希望です。 素晴らしい一年、素晴らしい学期にしていきましょう。