ここ数か月、SNS上では、大人のいない場所で同級生に暴力を振るう動画が次々と拡散されています。集団で、力のない者をねじ伏せ、肉体的に、そして精神的に痛めつける。それを面白おかしく撮影し、笑いながら眺めている。私はそれらの動画を見るたびに、言葉にできない嫌悪感と憤りを覚えます。と、同時に、これらの事件は、本当に他校の出来事なのか、広島学院でも私たちの気づかぬうちに、程度の大小はあれ、同様なことが起こっていないだろうか、と考えます。もちろん、私たちは君たちのことを信じている、という前提でこのまま話を続けます。
暴力とは、拳を振るうことだけではありません。もっと身近な、もっと見えにくい暴力が、君たちのすぐそばに潜んでいます。皆さんの周りに、「いじられている」人はいませんか?
「あいつは愛されキャラだから、何を言っても大丈夫」
「いじられて、本人も笑っているから、これはコミュニケーションだ」
もし、そう思っているとしたら、それは大きな間違いです。
聖書の箴言には、このような言葉があります。
「軽率なひと言が剣のように刺すこともある。」(12章18節)
皆さんの放った何気ない一言、「いじり」という名の軽口が、実は相手の心を深く突き刺しているかもしれない。そのことに、無自覚であってはなりません。
一昨年、私の母校で50歳の同窓会がありました。30年以上ぶりに再会した同級生の中に、当時「おやじ」というあだ名で呼ばれていた友人がいました。少し老けた風貌を、私たちは面白がってそう呼んでいたのです。
しかし、同窓会3次会の席で彼は、グラスを傾けながら静かにこう言いました。
「あの時はへらへら笑っていたけれど、実は、毎日とても悩んでいた。自分の顔が嫌で嫌でたまらなかった。でも、当時はそんなこと、とても言い出せなかったんだ」
私は、凍りつきました。 30年経って初めて、自分が親しみだと思っていた言葉で、彼の心を30年間えぐり続けていた加害者であったことを知ったのです。彼が笑っていたのは、そうするしか「その場」を生き抜く術がなかったからでした。
放課後の教室、トイレの陰、そしてスマホの中のSNS。私たち教員の目に見えないところで、誰かの心をえぐり、それを笑って見過ごしてはいないでしょうか。
広島学院は、一人ひとりが異なる「デコボコ」を持った存在であることを認め合う場所です。誰かの痛みのうえに成り立つ笑いなど、この学院には必要ありません。もし、目の前で誰かが踏みにじられている場面に遭遇したら、勇気を持ってください。以前の朝礼でお話したように、加害者も被害者も、その「双方の味方」となって、問題を解決できる人であってください。
新約聖書、マタイによる福音書にはこうあります。
「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(5章9節)
平和とは、ただ静かにしていることではありません。 おかしな「空気」に抗い、傷ついている人の沈黙の叫びを聞き取り、一歩踏み出す。そのアクションこそが「平和を実現すること」です。
「空気」を読むのではなく、「痛み」を読みなさい。
皆さんが、真に強い、平和の作り手であることを信じています。