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講話

5月10日 朝礼

 おはようございます。
 今朝もまず、奉仕委員長から話があります。
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 では話を続けます。
 ゴールデンウイークが終わり、5月も中旬に入りました。5月は、特に今日のような五月晴れの日には、木々の緑は輝き、花々は色鮮やかに照らされて、本当に自然が美しく感じられる季節です。この美しくて穏やかな5月を、カトリック教会は「聖母月」と定めて、イエス・キリストの母マリアを称えて賛美します。学院では今月を「祈りの月」として、毎朝、聖堂で祈りの集いを行っています。朝のひと時を、生徒や先生の話を聞きながら心静かに過ごすということを、ぜひみんなに体験してもらいたい。積極的に参加してください。 

 この「祈りの月」に合わせて、先週から廊下には学院の「四つの宝」の1つである「敬虔」という言葉を掲示してもらっています。四つの宝のそれぞれについては、中1の1学期のILの授業で話をしているので、ここであらためて話はしませんが、敬虔について少し考えてみたいと思います。

 「敬虔」とは、一般には「神を敬い慎む気持ちの深いさま」というような意味で「敬虔なクリスチャン」とか「敬虔な祈り」などのように、宗教的な意味合いで使うことの多い言葉です。だけどここでは別に特定の宗教とは結びつけず、「神」というかわりに「人間を超える大いなる存在」とか「人の力の及ばない存在」「永遠なる存在」などと言い換えて考えてもいいと思います。
 さっきも言ったような美しく生命力の溢れる自然に接すると、私はそこに「人の力の及ばない、人間を超える大いなる存在」を感じます。「大いなる存在の気配」を感じると言った方がいいかもしれません。ある人は、科学を深く極めようとしたときに、そのような「大いなる存在」を感じるかもしれないし、素晴らしい芸術作品に出合ったときに、その中に「大いなる存在の気配」を感じるという人もいるでしょう。このように私たちは、その形がはっきりと目に見えなくても、その声がはっきりと耳に聞こえなくても、時に人間を超える大いなる存在の気配を感じ取ることができるものです。
 広島学院の初代校長のシュワイツェル神父が「敬虔」を四つの宝の1つにしたのは、生徒たちに「大いなる存在」について否定せずに深く考えてもらいたい、そういった存在の気配を謙虚な気持ちで感じようとしてもらいたいと願ったからでしょう。そうすれば、自分自身についての、また周りや世界についての見方や考え方が、いつもとは違ったものになってくるということを、伝えたかったのだと思います。

 初代校長はこの「敬虔」を「勤勉」「明朗」「純潔」と全く同じように、学院生の目標である「人に仕えるよきリーダー」になるために必要な大切な宝であると教えました。そのことをあらためてよく意識してもらいたいという思いで、しばらくこの言葉を掲げておきます。

 中間試験まであと1週間です。こちらの準備もしっかりとやってください。
 高3はこの後すぐに模試が始まるので、速やかに教室に戻ってください。