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講話

11月16日 朝礼

おはようございます。
 今日はまず、高1の奉仕副委員長から話があります。 

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 11月も半分が過ぎましたが、11月はカトリック教会では、亡くなられ方のために特別に祈りを捧げる「死者の月」と定められています。これに合わせて、本校でも今週の土曜日に、広島学院関係物故者追悼式があります。この学校と直接または間接的に関わりのあった方々の中で、すでにこの世を去った方のご冥福をお祈りし、この方々が築いてこられた広島学院をしっかりと受け継いでいく決意を新たにする式典です。みんなにとっては、学院生としての誇りを持って学校生活を送りますという決意を新たにするということでしょう。このような多くの方の関わりがあったから、私たちがこうやって、今ここで学ぶことができるのだということを心に留め、こういった方々に対して失礼がないように、きちんとした態度で式典に参列してください。

 さて、今週から廊下には「使命」という言葉を掲示してもらっています。ここでは、天から与えられた任務とか、自分の心の中に感じている自分が果たすべき役割といった意味での「使命」です。
 去年もこの時期に話したことですが、追悼式も行われるこの「死者の月」に当たって、私たちはみんないつか必ず死を迎えるときが来るということを、今一度よく思い出してみるといいと思います。私たちにとって、命は何よりも大切なものですが、死を迎えるということは、少なくともこの世において、その最も大切なものを失うということです。その「失う」ということばかりを考えると、恐ろしくなり、生きていることを空しく感じてしまうかもしれません。そういった死に対する恐怖を感じることも大切だと私は思います。だけど本当に考えなければならないことは、必ず死を迎えるときが来るからこそ、それまでその大切な自分の命をどのように使うかということです。自分の命を相応しいように使うということが、ここで言う「使命」です。

 その自分にとっての使命とは具体的に何なのか、みんなは学校の色々な活動を通して、それを探していかなければなりません。なかなか簡単には見つからないかもせれませんが、「自分の使命を探す、自分の使命に気付く、そのためには、目の前のことを全力で尽くす以外に方法はない」と吉田松陰は言っているそうです。私もその通りだと思います。まずは目の前のやるべきことを一生懸命にやる。みんなにとっては、毎日の学校生活をきちんとやっていく中で、見えてくるものだということでしょう。そうやって、学生は学生なりに、社会人は社会人なりに、自分の使命を探すことも、また1つの使命です。
 おそらく多くの人にとって自分の使命とは、どんなことであっても、それは誰かの役に立つことでしょう。少なくともそうありたいものです。そして使命感は、特に辛いときや困難なときに、それを乗り越えて邁進していくための原動力になるものです。その使命感を持ってやろうとしていることが、大きいことかどうかは問題ではない。人にどう評価されるかも関係ない。自分の命を自分で一生懸命に使っていると言えるような生き方ができれば、本当に素晴らしいと思います。

 自分の掛け替えのない命をどんなことに使いたいのか、どのように使いたいのか、追悼式、そしてその10日ほど後にある創立記念式と、そういったことについても考える機会にしてもらえればと思います。