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講話

2月8日 朝礼

おはようございます。
 今日からは、中1から高2まででの全校朝礼になります。特に高2は、一番上の学年としての自覚をしっかりと持ってください。
 先週までずっと廊下には「明朗」という言葉を掲げていました。「広島学院生のために丙申の正月に書きました」という書道の杉岡先生の言葉が添えられていました。結局朝礼で明朗についての話をする機会が無いまま、1か月が過ぎてしまいました。話はまたいつかしたいと思いますが、杉岡先生の「明朗」は、みんなのために書いて下さったものなので、もうしばらく職員室の前に掲示しておきます。よく味わっておいてください。
 そして今週から廊下には「誠実」という言葉を掲げてもらいます。10日ほど前、高3の代表の生徒が「誠実」というテーマでみんなに話をしてくれました。人に対しても自分自身に対しても誠実でありたいといういい話でした。そのことをみんなにもよく意識してほしいという思いで、この言葉をしばらく掲げておきます。

 さて、明後日の水曜日にマラソン大会があります。いつも言うことですが、マラソン大会は体だけでなく心を鍛える機会でもあります。適当に済ませたいとか楽をしたいなどと思う自分としっかりと戦って、ベストタイムを目指して一生懸命に走ってもらいたい。場合によっては途中で棄権しなければならないこともあるかもしれません。始めから走ることのできない生徒もいます。それはそれで辛いことでしょうが、その経験もまた、自分の成長に繋げてもらいたいと思います。

 そしてもう1つ、明後日はキリスト教では「灰の水曜日」と呼ばれる日に当たります。この日から復活祭の前日まで日曜を除いて40日ありますが、この間を「四旬節」と言って、復活祭のお祝いのための心の準備する期間ということになっています。
 今年はマラソン大会と日が重なるので、代わりに金曜日の1時から「灰の日の典礼」を行うことにしています。その典礼の中で、司祭が「回心して福音を信じなさい」もしくは「あなたは塵であり塵に帰っていくのです」といった言葉をかけながら、一人一人の額に、棕櫚の枝を燃やして作った灰で十字架の印を付けます。棕櫚の枝は勝利や歓喜の象徴とされるもので、それを燃やした灰は、人間の栄華や歓喜も、いつかは灰のような塵となる儚いものであることを思い出させます。
 旧約聖書の創世記に「神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に息を吹き入れた」とあります。最初の人はアダムと呼ばれていますが、このアダムの語源は「土」という意味だそうです。そして、そこに吹き入れられた神の息が「命の霊」となり、人間は生きるものとなったと聖書は教えています。高1の生徒は2週間ほど前のIPの授業で、清水神父がおっしゃっていたので覚えているでしょうが、聖書の教えでは、このように上からの霊と下からの土の組み合わせとして存在するのが人間で、霊を神に返し、もう一度土の塵に戻るのが「死ぬ」ということです。
 塵は、ほんの小さな取るに足りないものです。どんな人も、いずれはそんな塵に還っていくということで、謙虚な気持ちになって傲慢な自分を悔い改める、灰の水曜日の典礼にはそういう意味があるのだそうです。と同時に、そんな儚い存在の人間を生きるものにしている霊の働きについても、考えてみるといいと私は思います。
 といいながら「霊」とは何かと聞かれても答えるのに困るのですが、「考える」「感じる」「意識する」といった精神的な活動を担うものだといわれたり、心の本体だといわれたりします。それは脳の働きだと主張する人もいるでしょう。しかしいずれにしても、「知性」「感情」「意志」といった心の要素、精神的な要素が、自分をより自分らしいものにしていきます。だから、肉体を鍛えようとするのと同様に、精神面でも鍛えて、より完成された自分自身を作っていかなければならない。それが生きるということだと私は思います。

 さっきも言ったように、マラソン大会もそういった精神面を鍛える機会の1つです。しっかりと走ってください。そして、金曜日の1時に聖堂で「灰の日の典礼」があります。誰でも参加できるので、ぜひ聖堂に来てください。