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講話

2月15日 朝礼

おはようございます。
 マラソン大会も終わり、今学期の授業もあと3週間となりました。1年の締めくくりとして、最後はしっかりと勉強に集中してもらいたいと思います。高2はその前に、修学旅行という大きなイベントが残っています。学ぶべきときには真剣に学び、楽しむときには大いに楽しんで、いい思い出を作ってきてください。

 さて、先週から廊下には「誠実」という言葉を掲げています。「誠実である」とは、自分のことよりも人のことや周りのことを思って、真心を込めて嘘や偽り無く行動することだと私は思っていますが、ある人が「誠実であるとは、たとえ誰も見ていなくても正しく行動することだ」と言っていました。確かにその通りでしょう。いつもそうありたいものですが、現実にはなかなか難しいときもあります。だけど、日頃からそういう行動を心掛けておかないと、人の目があるときとないときで、やっていることや言っていることが全く違うようでは、いずれ必ず誰にも信頼されなくなってしまいます。人の目があってもなくても、きちんとできるよう心掛けたいものです。
 また「人に誠実であるためには、自分に誠実でなければならない」というような意味の言葉もよく耳にします。この「自分に誠実である」とは、いい点も悪い点も含めてありのままの自分を認め、さらなる成長を目指すことだと私は思います。今も出てきたけど、人の目というのは、気にしなければならないときもありますが、自分に対する評価を気にして人の目を意識しすぎると、ありのままの自分が見えなくなります。そして、実力以上の高い評価を受けることを期待して、自分の思いと違うことを言ったり行動したりすることにもなるかもしれません。さらに、このように人の自分に対する評価を気にしすぎる人は、おそらく人に対しても勝手な評価を下してしまう。人ときちんと向き合えないのに、人に誠実にはなれません。
 いずれにしても、自分はどんな人を信頼できるかと考えたとき、それは、その根底に誠実さを持っている人でしょう。誠実さが人との良好な関係を作り出すし、リーダーシップを発揮するために必要な資質も、能力とか知識よりも誠実さだと思います。

 ところで、廊下には、先週の朝礼の話もあって「明朗」も並べて掲示してくださっているので、明朗についても一言話しておきます。
 明朗は広島学院の「四つの宝」の1つですが、この四つの宝は、学院創立の1年前に書かれた「設立趣意書」の中に出てきます。設立趣意書を書いたのは初代校長のシュワイツェル先生で、その中の四つの宝の部分の抜粋が、東門を入った所にある記念碑の裏側にあります。「本校は、カトリックの教えに基づいた倫理的人格の形成を目指す。ただし、それは宗教を強制することによってではなく、勤勉・明朗・敬虔・純潔の4つの宝の実践を勧めることで行われる」というような意味のことが、書いてあります。
 明朗とは明るく朗らかなことですが、その明るさとは、澄みわたっていて鮮やかな、雲1つない晴れ晴れとした、隠し事のない、そのような明るさのことです。だから、明朗を実践しなさいと言われてただ明るく装っていても、それは明朗ではない。嘘やごまかしがない、やましいところがない、ありのままの自分を認めながらやるべきことを自分なりにやっている、これは、さっき言った「自分に誠実である」と同じことですが、そういう生き方の中で明朗は実践できる。それがシュワイツェル先生の言われた人格形成に繋がるのだと思います。

 とにかく、まずは「人の評価を気にしすぎず、ありのままの自分を見る」ことと「誰も見ていなくても正しい行動をする」ことを心掛けなければならないと思います。