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講話

4月25日 朝礼

おはようございます。
 まず、奉仕委員長から報告があります。
    
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 さて、ナガ校の皆さんが来校して1週間が経ちました。明後日にはもうお別れということになります。残された時間を大切にして、互いにいい思い出を作ってもらいたいと思います。
 歓迎会のときにも話したように、私は18年前にアテネオ・デ・ナガに行きました。18年ということで、街はかなり変わったでしょうし、学校そのものも別の場所に移ったと聞いています。我々引率の教員が泊めてもらう修道院も、今は新しくなったようですが、当時は木造の古い建物でした。その建物は、戦争中、日本に接収され、そこに軍の司令部が置かれていたそうです。フィリピンと日本の間には、記憶に留めておかなければならない戦中、戦後の歴史があります。今朝は、そのことについて少し話します。

 戦争中、フィリピンの国内では、日本とアメリカの激しい戦闘が続き、111万人ものフィリピンの国民が、戦争に巻き込まれて犠牲になりました。日本兵も51万8千人が亡くなりました。
 その戦争が終わり、1年後、フィリピンでも戦犯を裁く裁判が始まりました。凄まじい反日感情が渦巻く中でも、フィリピンの弁護士は懸命に弁護をしたそうですが、151人起訴されたうちの79人に、死刑の判決が下されました。他の地域の裁判と比べて、死刑の比率の高さは際立っていたそうです。そして、その中の17人が処刑されましたが、それ以上は執行されないまま時は過ぎ、やがて1949年頃から日本国内で助命運動が起こり、嘆願書が大統領のもとにも届けられるようになりました。

 当時のフィリピンの大統領は、キリノ大統領という方でした。この方は、戦争中、妻と3人の子どもを日本兵に狙撃されて失いました。さらに5人の親族も戦争で亡くしています。日本に対する怒りや恨みは、どうしても消えることは無かったでしょう。だけどその憎しみを超えて、1953年、当時収容所にいた死刑囚を含む105人全員の日本への帰国を、認めることにしました。まだまだ激しい反日感情がある中、議会での承認を必要としない大統領の特権として出された恩赦でした。
 フィリピンにとって日本は隣国であり、あらゆる点において親しく助け合う仲になっていかなければならない。そのために、日本人に対して憎悪の念を残してはいけない。憎しみの連鎖を自分が断ち切り、次の世代に憎しみをもたらさないという大統領の強い決意による恩赦でした。
 その背景には、当時の国際情勢や政治的配慮や思惑もあったでしょうが、カトリック教徒としてキリスト教の「赦し」の教えを大切にしたということもあったと思います。大統領は国民に対する声明の中で、「憎しみや恨みの気持ちを永遠に持ち続けるわけにはいかない。穏やかな人生を過ごすためには、赦すことを学ばなければならない。」とおっしゃっています。

 一方、時の日本の吉田茂首相は「大統領の崇高なキリスト教精神に基づく措置を、日本の全国民は永遠に記憶に留めることでしょう」と感謝の言葉を送ったそうです。
 ただ、全国民が永遠に記憶に留めるというほど、この話はよく知られていることなのかどうか。今年の1月の終わりに、天皇皇后両陛下が、戦争の犠牲者を追悼するためにフィリピンを訪問しましたが、そのとき、日本大使公邸で開かれたレセプションにキリノ大統領の2人のお孫さんを招き、「日本の人たちは、キリノ大統領に感謝しています」と天皇陛下が伝えたということを記事で見て、私は初めてこの話を知りました。

 「赦す」とは決して感情的な行為ではなく、強い意志の力による行動です。フィリピンと日本には辛い過去がありましたが、今は友好関係が築かれています。そこには、憎しみを超えて「赦す」という決断を下した大統領と、その決断を受け入れたフィリピンの人々がいたという事実を、私たちは知っておかなければならないと思います。