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講話

11月21日 朝礼

おはようございます。
 今日はまず化学部と将棋部の表彰があります。

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 さて、2週間前から廊下には「礼儀作法」という言葉を掲げてもらっています。「マナー」という言葉にしようかとも思いましたが、「マナーとは、礼儀、行儀、作法」と辞書にあったので「礼儀作法」にしました。私たちには、毎日色々な場で、相手や周囲の人たちに対して不快感を与えず、良好な関係を保つために守らなければならない礼儀や作法があります。マナーを守らなければならないということです。
 ところが、それができていない生徒がいるという外部の方からの電話が最近増えてきているということで、先週の木曜日に生徒指導部長からみんなに話がありました。私は仕事の都合でその話を聞いていないので、同じことの繰り返しになるかもしれませんが、私からも学校の問題として、このことについてみんなに話しておきたいと思います。

 世の中には、ちょっとしたことでもすぐに苦情を言う人が、たまにいるようです。でも普通は、こういったことで電話を掛けるのには、それなりの勇気や覚悟が必要です。それでも掛けてこられるのは、あまりにもひどい現状があるからです。思い余って、あるいは見るに見かねて、電話を掛けてこられます。そして、電話は掛けてこないけど同じような思いをしている人は、間違いなくその何倍もおられます。

 当たり前のことですが、私たちにはみんなこの社会の中で「私」の立場と「公共」の立場を持っています。みんながみんな楽しく快適に過ごしたいという「私」の立場を主張すると、自我がぶつかり合うだけで秩序は保てません。「私」を大切にするためには、互いに「公共」も大切にしないといけない。マナーとは、そういった公共に対する気遣いです。
 その気遣いのできていない生徒には厳しい指導が必要ですが、そういった生徒の中には、自分たちの周りにいる人を「人の姿」として認識していない、風景の一部にしか見えていないので、迷惑を掛けていることに気付いていない人も結構いると思います。子どもならともかく、中学生や高校生がそれでは困ります。
 いずれにしても、気遣いのできていない学院生を見たら注意をしてあげなさい。上級生は、できていない下級生をしっかりと指導してください。他校の生徒にも、マナーの悪い人はいるかもしれません。大人でも気遣いのできない人をよく見かけます。だけど、そういう人にばかり目を向けるのではなく、もっと周りをよく見たら、きちんとしている人もたくさんいます。それに気付けば、マナーが悪いというのは恥ずかしいことだと感じるようになると思います。

 ところで、あるイエズス会の司祭が、ご自身の著書に次のようなことを書いておられます。「日本人が大切にしている倫理の根幹は、『人からしてほしくないことは、自分も人にしないように』というもので、迷惑禁止命令である。一方、キリスト教の倫理の根幹は、マタイの福音書に出てくる『人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい』というもので、親切推進命令である。」
 私たちが目指したいのは、ただ単に迷惑を掛けないようにというだけではない。「人に喜ばれることをする」「人が嫌がることはしない」これがマナーの本質であり、そこからmen for others は始まります。人に喜ばれれば自分の心は豊かになるし、人から嫌がられることが自分を虚しいものにします。マナーを守るということは、結局自分自身に返ってくることだと私は思います。