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講話

11月28日 朝礼

おはようございます。
 今週の土曜日は本校の創立記念日です。この12月3日はフランシスコ・ザビエルの命日に当り、カトリック教会はこの日をフランシスコ・ザビエルの記念日に定めています。ザビエルについては、みんなも色々な機会に話を聞いてよく知っているでしょうが、創立記念を前にして、今朝は、あらためてザビエルの足跡を振り返ってみたいと思います。

 ザビエルは1506年、バスク地方にあったナバラ王国の貴族の家に、5人兄弟の末っ子として生まれました。少年時代、ナバラ王国はスペインやフランスとの争いに翻弄され、結局スペインによって滅ぼされました。ザビエルが15歳のとき、ナバラの兵士であった2人の兄が、ナバラの復興を夢見て、かつての首都パンプローナの攻撃に加わりましたが、このとき守備隊の最前線で勇敢に戦った敵の将校が、イグナチオ・デ・ロヨラでした。この戦いでイグナチオは足を負傷し、療養生活を送る中で、回心へと導かれていきます。
 ザビエルは19歳でパリ大学に進学し、哲学を勉強しながら学生生活を楽しんでいましたが、3年後、寮の同じ部屋にイグナチオが入学してきます。世俗的な野心を持つザビエルは、「神に仕えることこそが人間の生きる目的である」と説くイグナチオを最初は嫌っていましたが、次第に惹かれていき、やがてザビエルにとってイグナチオは、最良の友であり良き先生という存在になります。
 それから10年ほどの間に、同士7人でイエズス会を結成し、それが正式に認可され、そして36歳のときに、ローマ教皇の要請でインドに派遣されます。ゴアを拠点にインド各地で宣教し、さらにマラッカやモルッカ諸島にも宣教に赴き、その間マラッカで日本人ヤジロウと出会います。ヤジロウを通して日本のことを知ったザビエルは、日本で宣教をするという夢を膨らませ、1549年、43歳のときにヤジロウらとともに鹿児島に上陸します。
 日本には2年3か月間滞在しましたが、最初の1年は鹿児島で宣教し、その後、平戸、山口を経て京の都に向かいます。天皇に宣教の許可をもらうつもりでしたが、当時の都は荒廃しており、天皇には権威のないことを悟り、10日余りで都を後にして再び山口に戻ります。山口では領主から宣教の許可をもらい、毎日朝から晩まで様々な階級の人と、キリスト教の教えだけでなく身近な自然科学に関する話などもして、人々に好意的に受け入れられたようです。こうして5ヶ月間山口に滞在した後、さらに大分で2ヶ月間宣教をし、一旦日本を離れてゴアに戻ります。そして、日本文化が中国の影響を受けていることを知って今度は中国に向かいますが、上陸が許されないまま、広東の港に近い上川(サンチャン)島で3ヶ月余り中国本土に渡る機会を覗ううちに急病にかかり、1552年12月3日、46年の生涯を閉じました。

 ザビエルにとっては、日本での宣教は、期待していたほどの成果はあげられなかったかもしれません。しかし種は確実に蒔かれました。ザビエルがヨーロッパに書き送った日本に関するたくさんの手紙によって、その後、多くの宣教師が日本に来てザビエルの意志を継ぎました。ザビエルは、志のある若者を教育するための近代的な学校を日本に作る夢を抱いていましたが、約30年後、安土と有馬にセミナリヨが建てられ、その夢は実現しました。そこでは、当時の世界の先端を行くかなりレベルの高い教育が行われたようです。これが日本のイエズス会学校の始まりです。

 ザビエルは、使命感に燃え、命を掛けて東洋の国々に赴きました。豊かな教養を身に付けていましたが、自分の利益は求めず、福音宣教と貧しい人々、虐げられた人々への奉仕の日々を送りました。真理を求め、本当に価値のあることを選んで生きた人でした。
 広島学院のルーツは、このフランシスコ・ザビエルまで遡るのだということを、創立記念を迎えるに当たって、あらためて心に留めておきたいと思います。