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講話

1学期始業式 

おはようございます。
 
 まず61期生の皆さん、高校入学おめでとう。3週間前にも話したように、君たちは義務教育課程を修了し、今日からは自分の意思で学生生活を続けることになります。君たちにとっては、高校生になったといっても周りの仲間や先生方の顔ぶれは変わらず、学校の雰囲気も変わらず、広島学院での生活の後半が始まるという程度にしか感じていないかもしれません。だけど、学校の中でも外でも、高校生としてその責任は大きくなります。自分自身の将来の進路についても、現実的なこととして真剣に考え始めなければなりません。
 君たちには、広島学院高校の生徒になった重みをしっかりと自覚してもらうために「生徒心得を守り、心身を鍛え、勉学に励むことを誓います」と書かれた誓約書にサインをして、今日提出してもらいます。この誓約書の言葉をよく胸に刻み、広島学院高校の生徒として、授業をはじめ色々な活動、行事に積極的に取り組もうという決意を新たにして、高校生活を始めてもらいたいと思います。

 その高校1年生に上智学院から「叡智を生きる」という冊子が配られます。他の姉妹校の高校1年生や上智大学の新入生にも配布されることになっています。その冊子に私も校長として何か一言書くようにと言われ、広島学院の「四つの宝」について書きました。その内容をみんなにも少し話しておきたいと思います。

 広島学院の初代校長フーベルト・シュワイツェル神父は、学院創立時に、勤勉・明朗・敬虔・純潔を「四つの宝」に定め、この4つの心の在り方を毎日の学校生活の中で大切にするように生徒に求めました。この4つの元となる言葉は、今から430年ほど前に書かれた初期のイエズス会学校の色々な規則をまとめた「学事規定」の中の「イエズス会学校に通う生徒のための規定」に出てきます。ということで、この4つはもともとイエズス会教育と深い関係のある言葉です。ただ、当時の4つは日本語に訳すと、勤勉・従順・敬虔・純潔でしたが、シュワイツェル神父は従順を明朗に替え、4つの言葉をまとめて「四つの宝」と言い表すことにしました。
 
 私はこの4つの言葉の意味を、先輩の先生のお話を引用しながら次のようにまとめてみました。

 勤勉とは、細かなところもないがしろにせず、自分の能力を超えた難しい事態に直面してももう少し頑張って乗り越えようと努力を続けること。
 明朗とは、嘘やごまかし、隠し事がなく、正しいことに従順であること。ありのままの自分を認め、ありのままの他人を受け入れる朗らかな心を保つこと。
 敬虔とは、人間を超える大いなるもの、永遠なるものに想いを巡らせ、憧れや畏敬の念を抱くこと。そして、謙虚な心で生かされている自分を感じること。
 純潔とは、物質的な欲望に支配されず、邪念を持つこともなく、心が潔白であること。正しいもの、善いもの、美しいものに純粋に憧れる心を大切にすること。

 シュワイツェル神父は、当時の生徒たちに、この4つを将来の目標にするということではなく、まさに今「勤勉でありなさい」「明朗でありなさい」「敬虔でありなさい」「純潔でありなさい」と、その実践を求めました。そしてみんなも広島学院の生徒として、同様に、今、その実践を求められています。

 ところで一昨日、新中1、64期生の入学式が無事に終わり、新しく191名が広島学院に加わりました。その入学式で、マルコによる福音書にある「種を蒔く人の譬え」が朗読されました。みんなには、持てる能力をより一層伸ばし、将来、仕えるリーダーとして社会で活躍する人間に成長するために、学校のあらゆる活動の中で、毎日たくさんの種が蒔かれています。この種が芽生え、しっかりと育ち、たくさんの実を結ぶよう、自分自身の心を、耕された良い土地のように保っておかなければならないということを教える譬え話です。
 私は「四つの宝」の実践が、自分の心を、耕された良い土地の状態にしておくことに繋がるのだと思います。シュワイツェル神父が生徒に求めた、勤勉・明朗・敬虔・純潔の4つの心の在り方が、蒔かれた種が大きく育ち、豊かに実を結ぶ心の在り方だと思います。

 今日から2019年度が始まります。みんなには、蒔かれた種をしっかりと育てようという意欲を持ってもらいたい。そして今までの自分とは一味違う成長した自分を目指して、新年度をスタートさせてもらいたい。みんなで一年にしていきましょう。