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講話

11月30日 朝礼

おはようございます。
 今週の木曜日、12月3日は、フランシスコ・ザビエルが中国の上川島で亡くなった日に当たります。カトリック教会は、この12月3日をザビエルの記念日に定め、広島学院では、この日を創立記念日として祝っています。
 今年は、創立記念日の翌日の4日に、創立を記念した講演会を、中学と高校とを分けて実施することにしています。講師の先生は、イエズス会の李聖一神父。簡単に紹介をしておくと、李先生は、広島学院や六甲学院、栄光学園で長く教員としてお勤めになり、特に本校では2003年から7年間、校長を務められました。現在は上智学院の中等教育担当理事として、姉妹校4校のお世話をされていて、本校にも時々顔を出されています。広島生まれ、広島育ちで、大のカープファン。みんなも親しみを感じる神父様だと思います。話のとても上手な方なので、楽しみにしておいてください。

 さて、私は当日は何も話をする時間がないので、代わりに今朝、本校の創立にまつわる話を少ししておきたいと思います。
 広島学院が建てられているこの土地の歴史について、インターネットや学校に残されている過去の記念誌などで調べてみると、1000年以上前は、この前にある福蔵寺の境内や農地が広がっていたようです。西暦800年頃に、七堂伽藍といって、塔やお堂等いくつもの建物が建立されたという記録があるそうです。それらは、いつ頃のことかは分かりませんが、山崩れのために崩壊したとのことです。土石流が発生したのかもしれません。
 その後のことについては、以前、本校のフェイスブックでも少し紹介されたことがありますが、江戸時代中期、古江村を領地としていた浅野直道が、別荘地として、今の縮景園を凌ぐような広い庭園をこの地に造営しました。その庭園は、江戸時代の後期になって広島藩の所有となり、この一帯を「西御山屋敷」と命名し、別名「翠江園」とも呼ばれました。広島湾を一望できる景勝の地として、藩主をはじめ多くの文人がここを訪れたそうです。古田公民館の公民館便りに、かつて地元の方が、「古老の言によると、藩主来園時には、現在広島学院の下グランド辺りで競馬が催され、高須に向けて鷹狩りが行われたという」と書いておられます。
 明治の時代に入って、この地は一時政府の所有となりましたが、後に払い下げられて農地になりました。学院が建てられる前は、日当たりのよい斜面地にビワ畑が並び、かなりの収穫があったそうです。このように、ここは江戸時代までは文化が大切にされ、明治以降は豊かな収穫をもたらす土地でした。
 1945年に広島に原爆が投下された直後から、広島の復興のために懸命に働いたイエズス会員たちは、数年後ある程度復興が進むと、今度は日本や世界のために働く若者を育てることで広島の町を励ましたいと考え、広島学院の創立の準備を始めました。そして建設地として、この土地を選びました。当時の広島市長から、学校を建てるならば市の西部に建設するのがいいという助言を受け、この地を見つけたそうです。私は、学校を建てるのに相応しい歴史のある土地との運命的な出会いを感じます。

 この土地のことについてはこれぐらいにして、1956年、広島学院は創立されました。その前の年には学校設置の認可を受けるために、この学校の建学の精神が書かれた「設立趣意書」が作られました。それを読むと、今の時代には合わない記述も若干ありますが、今まで、そしてこれからも、建学の精神として大切にしなければならないことが書かれています。その一部を抜粋して紹介すると
  
  広島学院は、カトリシズムの精神に基づいて、人格の陶冶と学習の訓練とを調和する教養を与え、本学院の全生活を通じて、真理と正義と平和を希求する円満な人間を育成することを、使命とする。
 
 この建学の精神にある通り、広島学院の生徒は、優れた人格の形成と学力の向上の両方を、より高いレベルで目指さなければならない。そして学校でのあらゆる活動を通して、何が真理か、また正義とは何か、平和とは何かを深く学び、それら真理と正義と平和を強く願い求める円満な人間へと育つことが期待されています。
 創立記念日を迎えるに当たり、広島学院は、由緒ある土地に高い理想を掲げて建てられた学校であることを、あらためて意識してもらいたい。そして、ここで学ぶ意味を、一人一人よく考えてもらいたいと思います。