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講話

2月8日 朝礼

 おはようございます。
 今朝はまず、中3の生徒から募金の報告があります。

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 では話を続けます。
 2週間ほど前から廊下には「いつも喜べ。絶えず祈れ。どんなことにも感謝」という言葉を掲げてもらっています。これは新約聖書の中の「テサロニケの信徒への第一の手紙」に出てくる言葉で、聖書にある通りに紹介すると「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」となります。

 この手紙は、西暦50年頃にパウロが書いたものです。パウロはもともとは厳格なユダヤ教徒で、イエスの教えはユダヤの律法を軽んじていてユダヤ教を破壊するものだと考え、キリスト教徒を迫害していました。ところが、イエスが亡くなって何年か経ったあるとき、「なぜ私を迫害するのか」というイエスの声を聞くという体験をして劇的に回心をします。その後はイエスの教えを伝えるために、各地に赴きました。特に、異邦人(ユダヤ人ではない人たち)にキリスト教を伝え、そのことによって、キリスト教はヨーロッパに広がることになります。
 テサロニケはパウロが赴いた異邦人たちの町の1つで、ギリシアの北東部にあります。パウロの伝道活動によって信徒が集まるようになりましたが、パウロがテサロニケを離れた後、信徒たちは困難や不安の中に置かれました。そんな彼らを励ますためにパウロが書いた手紙の中に、この「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」という言葉が出てきます。
 このように、これは苦境にある人を励ますための言葉ということですが、それにしても「いつも」とか「絶えず」「どんなことにも」と言われても、それはとても無理だと誰もが言いたくなるかもしれません。これは「いつも喜び、祈り、感謝せよ」と命じているのではなく、「喜び、祈り、感謝する」ことを心掛ければ、私たちの生活はもっと豊かなものになるということを教えているのだと、私は思います。

 その中で「いつも喜んでいなさい」について少し考えてみると、「喜ぶ」という漢字はいくつかあって、それぞれ意味は多少違いますが、一般的には「嬉しく感じる」「楽しく思う」といった快い感情の動きのことです。喜びの多い日々を過ごしたいものだけど、実際には、最近どんなことで喜んだか、すぐには思い出せない人も多いかもしれません。
 何か特別な出来事がないと喜べないというのでは、確かにあまり喜ぶチャンスはありません。美味しいものを食べても、元気に活動ができても、人の優しさに接していても、それを当たり前と思っていると喜びはありません。
 「いつも喜んでいなさい」というのは、「本当は、こういったちょっとしたことの中にも喜びの感じられることが、身の回りを探せばたくさんあるはずですよ」という励ましの言葉なのだと思います。喜びだけでなく、喜怒哀楽それぞれの感情はどれも大切ですが、中でも喜びにもっと敏感に気付くことを心掛ければ、少し違った毎日になるかもしれません。

 ところで喜びといえば、中学生や高校生のみんなに日々体験してもらいたいものの1つに「学ぶ喜び」があります。「分かった」「できた」という喜びであり、学んだことによって今までの自分とは少し変わった、成長したという喜びです。勉強だけでなく、クラブ活動やその他色々な学びの機会に、その気になれば体験できる喜びです。
 この喜びを得るためには、「分かるようになりたい」「できるようになりたい」という強い思いがないといけないが、その点、みんなはどうでしょうか。学院生の先輩の多くは、伝統的にこの「分かった」「できた」という喜びを貪欲に求めていました。そして、そのために努力をしました。みんなにもそうであってもらいたいと思います。