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講話

2月15日 朝礼

 おはようございます。
 一昨日は新入生登校日でした。66期生となる小学生たちには、これから入学式まで2か月足らずの間、学院生になるための準備をしてもらいます。ロサド先生は、既に中学入試の前に、彼らのために新しいハンガーを作っておられました。このように、学校の方も新年度の準備は進んでいます。3学期も後半に入り、みんなもぼんやりとしていると、あっという間に今年度は終わってしまいます。そんなことにならないよう、一日一日を大切に過ごしてください。

 さて、廊下には今週も「いつも喜べ。絶えず祈れ。どんなことにも感謝」という聖書の言葉を掲げています。前回の朝礼では喜びについて話しました。今日は祈りについて、私にとってかなり難しいテーマですが、少し話をしたいと思います。

 「祈」という字はしめす偏に斤と書きますが、しめす偏は「神に生贄を捧げる台」、斤は「近づく」という意味があるのだそうです。だから祈りとは「神の前に近づいて、自分の思いを表す」ということでしょう。
 自分の思いと言えば、願い事を叶えてほしいということかもしれません。「困ったときの神頼み」というように、自分の力だけではどうにもならないときには、神様にでも仏様にでも助けを求めたくなるものです。日頃はあまり信仰心がなくても、こういうときには心から祈りたくなるというのは、人間の自然な姿だと思います。自分の成功を祈るだけでなく、人の幸せを祈ったり世界平和のために祈ったりすることもあるでしょう。
 ただ、真剣に祈ったからといって、いつも自分の思い通りに叶えられるというものではなく、それを思うと「祈りなど意味がない」と言いたくなる人もいるかもしれません。だけど願い事というのは本来は「目標に向けて頑張ることができますように」とか「できるだけのことはするので、あとはよろしくお願いします」というような祈りだと思います。一生懸命に取り組む。そしてどんな結果になったとしても、その結果の意味を見つけて、また前に進む。そのための力を、祈りは与えてくれるのだろうと私は思っています。

 ところで、カトリック教会ではよく「祈りとは、神との会話である」と言われます。人と人とが会話でコミュニケーションを図るように、人と神様は祈りでコミュニケーションを図るということです。相手は神様で、何でもお見通しなので、祈りの場で自分を偽ったり飾ったりしても仕方がない。自分の思いを正直に表し、それに対して何かを感じ取る。このやり取りが神様との会話であり祈りだと、私は教わりました。
 その通りだと思いますが、別にカトリックでなくても、或いは特別な宗教に対する信仰心を持っていなくても、人間を超える大いなる存在との会話を想像すればいいし、それが難しければ、静かに手を合わせたり目を閉じたりするだけでいいと思います。そうしながら、謙虚な気持ちになって有りのままの自分を振り返り、これからどのように生きていこうかなどと自問するのも祈りです。聖堂で黙って座りながら、心に感じることに耳を傾けるのも祈りです。みんなが毎日行っている瞑黙も、気持ちを切り替えるための祈りの時間です。祈りは、生きるための内なる力を与えてくれると、私は思います。

 その祈りの時間の1つとして、今週の水曜日の1時から聖堂で「灰の式」という典礼があります。この日はカトリック教会では「灰の水曜日」と呼ばれています。灰の水曜日は、復活祭の日から日曜日を除いて40日遡った日と定められており、今年は4月4日が復活祭で、そこから遡ると今週の水曜日になります。この日から復活祭までを、教会では「四旬節」といい、復活祭を迎えるための心の準備をする期間になります。
 灰の式の中で、司祭は一人一人の額に灰で十字架の印を付けます。額に付けられた灰には、私たちの体はいつかは塵となっていく儚いものであることを思い起こさせるという意味が込められています。この宇宙万物を創造した大いなる存在の前では、人間はほんの小さなものであることをあらためて認識し、傲慢な自分を悔い改める。そして、自分の足りなさや弱さと向き合いながらも、与えられた才能を積極的に活かしながら生きていこうという決心を新たにするための典礼です。
 灰の式には、誰でも自由に参加して灰の印を受けることができます。ぜひみんなも水曜日の1時に聖堂に来て、祈りのひと時を過ごしてください。