先週で中間試験の答案がすべて返却され、また週末には多くの部活動で秋の新人戦が行われましたね。この時期は、学習面でも部活動でも、途中過程の「結果」が出るタイミングです。努力が実を結んで喜んでいる人がいる一方で、どれだけ頑張っても手が届かず、悔しさで立ち尽くしている人もいるでしょう。
これまで全校朝礼で、イエズス会教育の柱である「4C’s」のうち、「Competence(有能)」と「Conscience(良心)」について話してきました。今日は3つ目の「Compassion(共感)」についてお話しします。
一生懸命努力して、納得のいく点数を取り、試合で勝つこと。つまり有能さ(Competence)を磨くことは素晴らしいことです。しかし、その結果が出た後の振る舞いにこそ、本当の人間性が問われるものだ、と私は思っています。自分が90点を取って大喜びしている時、隣には30点の答案を見つめて絶望している友人がいるかもしれません。試合に勝って歓喜している時、目の前には敗れて泣いている相手チーム、あるいは、試合に出場したくても出場できなかった友人がいます。 自分が成功したな、と感じる時こそ、その影で悔しい思いをしている仲間の痛みに気づくことができるか。これが、イエズス会が大切にしている「Compassion」の第一歩です。
Compassionは、ラテン語の「Com(共に)」と「Passio(苦しむ)」が組み合わさってできています。つまり、Compassionの本来の意味は「共に苦しむこと」です。皆さんの周りに今、テストの結果が悪くて落ち込んでいる友人や、部活でうまくいかずに悩んでいる友人、周りとの関係性に悩んでいる友人がいたとします。皆さんには、彼の代わりにテストを受けたり、試合に出場したり、人間関係を直接グリっと好転させることは、できません。実は、人の苦しみを根本的に「解決してあげる」ことは、なかなかできることではありません。
では、私たちにできるCompassionとは何でしょうか。落ち込んでいる友人に対して、「もっと勉強すればよかったのに」「もっと練習すればよかったのに」と正論を言ったり、「次頑張ればええじゃろ」と安易なアドバイスで励ましたりするのは、実は相手のためではなく、気まずい沈黙を埋めたい「自分のため」であることが多いものです。
本物のCompassionとは、安易な言葉で相手の痛みを消そうとするのではなく、相手の悔しさを尊重し、ただ隣に座って、その苦しみを一緒に背負うことです。
・ため息をついている友人がいたら、「今回はキツかったな」と一緒にため息をついてあげること。
・試合で負けてもなお、黙々と皆の用具を片付けをしている友人がいたら、何も言わずに自分も用具を片付けること。
「何かをしてあげる」のではなく、「ただ傍にいる」こと。それが「共に苦しむ」ということなのだと思います。
有能さだけを追い求める学校なら、テストで100点を取った人間、試合で勝った人間だけが一番偉いことになります。しかし、70年間、広島学院はそのような学校ではありませんでした。私たちは、結果を出した生徒と同じくらい、いやそれ以上に、傷ついている隣の仲間の心に寄り添い、共に苦しむことができる生徒を誇りに思います。疲れが溜まり、少しピリピリしやすい時期だからこそ、互いの弱さや痛みを否定せず、受け入れ合う強さが必要です。今週はぜひ、「そこに居ること」で、仲間へのCompassionを示すことを意識してください。